ある穏やかな秋の日、ハスの花の咲く池のほとりを歩きながら思った。
濁った水の中からすれば、穏やかな地上の世界は、極楽に思えるかもしれない。泥水の底に棲む生き物からすれば、池のほとりを歩く人間は、お釈迦様に見えるかもしれない(自分がお釈迦様みたいだというわけではない、念のため)。
やはり比較の問題になってしまうが、穏やかなこの世界というのは、考えようによっては〈極楽〉と言えるのかも。もちろん、その逆に〈地獄〉と考えることも可能なのだが。
時間を遡って、いわゆる釈迦、ゴータマ・シッダールタが生きてた時代、彼の近くに僕らがいたとしよう。常人とはどこか違っていたかもしれないが、一人の悩めるお坊さん、くらいにしか思えなかっただろう。(時間的に)遠くから眺めている場合と、間近で見るのとは、何て言うか「ありがたみ」というものが違うからだ。
モーツァルトだってアインシュタインだって、どこか変わっていたにせよ、その奥さんからすれば、食って寝ておならして、の〈俗人〉だったに違いない。近くにいれば、そうなる。
だから、今身近にいる人でも、何十年、何百年かしたら偉人と呼ばれているのかもしれない、ということを言いたかっただけ。
高名なお坊さんとか霊能力者とか、皆さんにも何人か心当たりがあるかもしれない。僕が「この人はお釈迦様に近い人だな」と思っているのは、斎藤一人さん。顔も見たことないし、本を読んでおまけのCDを聞いただけだが、この人はスゴい人。
マスコミにはまず出てこないのだが、ご本人やお弟子さんたちの書いた本がたくさん出てるんで、よかったらどうぞ。人生、変わるかも。もちろん、知ってる人は知ってると思うが。(ちょっと宣伝っぽくなってしまいました)
ともかく、身近な人の中にも、すんごい人は絶対いるんだってこと。
わかりやすく言うと、通勤電車で乗り合わせた他の乗客の中にも、例えば売れてるケータイの設計者だとか、有名な店の店長さんだとか、きっといるんじゃないかと思う。一般に知られていないだけ。そしてそういう人たちの集まりが、この世の中だってことも。
ところで、お釈迦様だって、人間の願いを聞き入れたり助けたり、それはそれで気苦労はあるだろうと思う。そうすると、仕事で悩む僕らとそう変わらないのではないかという気もする。苦労はあっても、穏やかでいられるかどうか。
蛇足ながら、「青空文庫」というサイトで、数々の文学作品を読むことができます(無料。ただし横書き)。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』も、入っています。