思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

わたしの哲学・思想についてー徒然なるままに

2005-06-21 | 恋知(哲学)

昨日の公共哲学MLのメールに少しだけ手を加えて公開します。武田思想の理解のために!です。なお、このメールに対して竹田青嗣さんと綿貫信一さんからメールを頂いていますが、明日公開しまので、期待して!お待ち下さい。



「メタノイア=回心の重要性は、実存主義の影響を強く受けた(+プラトン?)ように思われる武田さんの問題意識にも通じるでしょう。」(山脇)

との山脇直司さんの言説を受けて、 「私の思想」について徒然なるままに書いてみましょう。

わたしの思想について 武田康弘

私は小学生の時以来、「なぜ?」と考える欲求が強く、大人を「質問ぜめ」にする子どもでしたが、同時に内臓疾患で苦しんでもいました。人間が「欲望存在」だという原理を見つけたのは小学6年生の時ですが、書物や他者の話としてではなく、考え・悩んだ末の「覚醒」=結論でした。

私は自分の「日々の経験と実感」に基づいて「自分で考える」ことが何よりも好きでしたから、哲学や思想の本を読むことは好きではありませんでした。「変な人だな。わざわざ難しくして。感覚の鈍い人だな。ピントが外れているな。」 誰の本を読んでもあまり感心しなかったのです。

まして宗教者の固いあるいは「マジメ」な人間性にはウンザリで、どこか深いところで「インチキ」(自己欺瞞)をしているな、としか感じることはありませんでした。ついでに言えば、千代田区神田と文京区向丘が私の故郷?ですが「皇居」=天皇という存在は、まったく理解不能―不自然極まりない非人間的なものにしか見えませんでした(もちろん今でも)。*「皇族の人権と市民精神の涵養」を参照してください。

話を戻しますが、始めに書いたように私は小学6年生の時に「回心」したのですが、それは高校生になって「歎異抄」を読み、「回心」は自力から他力への回向一回だけという記述に触れ深く「納得」するところとなりました。

私が影響を受けたのは、主には、親鸞の他力主義であり、白樺派の楽観的人間主義であり、ソクラテス・プラトンの恋知学であり、マルクスの熱い現状改革主義であり、サルトルの全体的人間主義であり、フッサールの原理的な認識論ー現象学です。
大学生の時に読んだ竹内芳郎の「サルトル哲学序説」(筑摩叢書)は長いこと私の基準になっていました。

私の哲学の立場は「現象学的存在論」です。
認識論ー現象学は、「学」としての哲学の最深の基盤なのですが、その最も有効な理解は、竹田青嗣の一連の現象学に関する著作です。これは認識論の「世界基準」です。
話はそれますが、「認識論」抜きの哲学は哲学ではなく、人生論やただの主義にしかなりません。原理上、認識論は「観念」を先立たせなければ成立しません。したがって「唯物論的認識論」とはそれ自体が言語ー概念矛盾です。だからマルクスは認識論が書けず、ヘーゲルのそれに拠るしかなかったわけですが、そのことを彼が自覚できずにいたことがマルクス思想を「主義」として教条化させた深因だ、と私は見ています。

話を戻します。
思想とは本来「生きられるもの」であり、それを深く了解するためには、「理論」ではなく、まさに「哲学」として遇さなければならないのです。哲学とは広義の実存論のことであり、広義の実存思想でない哲学とは哲学ではなく、何かしらの「理論」に留まります。人間の心の問題ー探求を基盤としない知は哲学ではないからです。これは「原理」です。

以上、ちょっと思いつくままに書いてみました。

2005.6.21


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする