人間と教育の原理ー「実存は本質に先立つ」ー優れた人とは?
わたしが思う「優れた人」とは、吸い取り紙のような吸湿性をもった人です。
襞(ひだ)が細かく、襞が多く、襞が深い人です。
逆に言えば、自分の心を、素直に・自然に・自由に開くことのできる人です。
死ぬまで「固まらない」人です。
「伝統」という概念に固執し、縛られ、固い鎧兜を着た人には、発展性がありません。優れた人とは、「伝統」から新しい世界を生むことのできる人です。
古いものに縛られ、自由な想念を広げることのできない人は、自他を共に不幸にします。
自民党文教族の人たちの顔は、総じて固く神経質な顔ですね。人間的な柔らかさ・面白みがなくエロースの少ない顔です。既成秩序が優先し、自由な発想が乏しく、内容の豊かさは後回しで、保守的で固い論理をもった形式好き、特に国旗と国歌を熱愛するフェティシスト、そんな顔にしか見えません。失礼!(エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』ー顔は顕現する!)
このような人たちは、本来、最も「子どもたちの教育」にはふさわしくないはずです。ある特定の傾向に人間を閉じ込める=固い「理念」を優先させるやり方は、本質的に人間の教育には合いません。本来、大人は虚心に子どもの姿を見て学ぶのです。スキンシップを含む「心身全体での対話」という方法が教育における理念なのです。予め決まった内容を持たない「理念ならざる理念」です。
人間の様々な事業の中で、唯一、教育のみが通常の意味での理念をもってはならない営みです。民主政治と同じです。実存する子どもたちを見て、どれだけ吸い取り紙になれるか?一見、非合理にしか見えない子どもの言動・全身から発するメッセージを、心身の全体でどこまで受け止めることができるか?が、勝負なのです。子どもたちの実存のありようによって、常に自在に変化してゆく通常の理念とは異なる「理念」が求められます。人間教育においては方法が理念の役目をもつのです。「実存は本質に先立つ」からです。
「よき人間を育てる教育」のためには、「工場生産物の品質管理」とは正反対の思想と方法が必要とされます。人間は何かのために存在するのではなく、生きること=存在すること自体が価値・エロースなのですから。この原理を知らず、「政府」の思想に従わせようと考える愚か者を私は絶対に許さないでしょう。子どもー人間に対する冒涜者=「国家主義者」以上の悪者はいません。通常の犯罪者とは次元が違います。
2005.6.24 武田康弘
上記の文書は、3月18日の文書に少し加筆し、意匠を変えたものです。重要な原理だと確信していますので再度発表します。