以下は、白樺MLでのやりとりです。
高城久です。
昨日、武田先生が治療に来て、終わったあと、少し話しをしました。
武田先生は
「まして宗教者の固いあるいは『マジメ』な人間性にはウンザリで、どこか深いところで「インチキ」(自己欺瞞)をしているな…」
というように「マジメ」をネガティブに捉えることが多いのです。
もちろん、小泉純一郎氏のようなフマジメを奨励していることではないのは明白です。
私はここにあるような教条的というか型にはまったマジメを限定的に指していると解釈していて
確認のために質問してみると、タケセンはこう言いました。
「本物が好きなんですよ。」
親鸞の言葉を借りれば、本物とは『計らいのない』ということですか?と確認するとYESの答えでした。
つまり、念仏をするぞ!とか念仏を唱えなければいけないというのは凡夫の計らいで、
本物の念仏者は計らいがなく弥陀の本願が身体化して自然法爾(じねんほうに)の状態になるというのが親鸞の確信です。
「マジメ」をかるーく飛び越えて本物になりたいと思い、ふかーく納得です。
武田です。
その通りですね。
ひとつ付け加えると、「ほんもの」とは、「実用性」と「遊び心」の融合ですー「用の美」こそ本物の美(柳宗悦)。
日本の事実学=受験的な思想(神経質な愚か者の想念)とは対極にあるおおきく豊かな世界です。
一時の損得や他者の評価などに惑わされることのない「内的意味充実」の世界をつくりあげることが「ほんもの」です。
エロース豊かな生のことです。
ニセモノの顔は貧しいです。いつも「はからって」ばかりいるから、自分自身になれないのです。小さな自己を守ろうとして、殻に閉じこもればエロースはやってきません。「存在そのもの」の魅力が消えて「世間体人間」へと堕落するのです。
ちょっと思いつくままに。失礼。