以下は、松戸市の市民団体(松戸市民ネットワーク)からの依頼で書いたものです(一部加筆)。現・我孫子市長の福嶋浩彦の政治思想と武田の哲学(民知という発想による「恋知」)との関係についてです。
豊かな主観性を! 発想の転換ー福嶋浩彦の転換点=原点
まず、皆が自分のありのままの「思い」を肯定し、そこから出発しようではないか。深く豊かな「主観性」を形成しあおうではないか。誰でも自分の頭の外には出られないのだから、絶対的な合意は得られないことを互いに了解しあおうではないか。
人間・社会問題においては、「客観的な真理」という想定は背理であること。したがって、目指すべきは、原理的にはありえない「正しい」人間や社会とは?を考えるのではなく、「魅力」ある人間や社会とは?を考えること。これが武田の思想ですが、その思想を支える認識論(哲学)の基盤は、解釈し直された「現象学」(最大の功労者は私の旧友・竹田青嗣さん)です。
1987年の冒頭から始めた「哲研」(哲学研究会)では、従来の客観主義的な思想や哲学(その象徴は社会主義・共産主義)と様式主義=「型」の文化(その象徴は近代天皇制・靖国思想)とは全く次元を異にする「実存論」的な思想とそれを支える「現象学」の探求をその主要テーマとしました。右と左の同時超克を目がけたのです。当時私が師事していた竹内芳郎さん(サルトルやポンティの訳者)の思想を徹底することで「民知」(この造語は後のものですが)をつくろうと苦闘しました。直接体験(内在としての知覚―情感)から出発する哲学、従来の哲学とは次元を異にする哲学ならざる哲学を生むための猛烈!な努力を続けました。
私の心友、現・我孫子市長の福嶋浩彦(当時33才・我孫子市会議員)は、最初から「哲研」のメンバーでしたが、1988年6月に私の提案により個人紙「緑と市民自治」を発行。我孫子市の全家庭に新聞折込による配布を始めました。福嶋さんと私の二人で作成・編集したそのミニコミ紙の内容は、上記の思想・哲学に基づいたもので、当時まだどこにもなかった「思想」をつくり、それに拠る新しい「実存論に基づく社会運動」を創造しよう!という意気軒昂なものだったのです。
あえて文学的な言い方をすれば、私は私に閉じ込められているという「絶望」からの出発が、深い地点で、生産性に富む思想の湧出と、人間関係の深化・拡大を可能にしたのです。当時、社会党市議だった現我孫子市長の福嶋さんが依拠していた「社会主義」という体系的な思想から「市民自治」という「民知」に基づく不定形な思想への跳躍が、その後の彼の発展・飛躍を可能にした原動力だと言えましょう。
「合意」とは得がたいものであること、「客観的な真理」や「絶対的な基準」とは背理であることを互いに自覚しあうことが、非生産的で無用な言葉の応酬や、互いの「真理」の主張による深刻な対立を回避するための基本ルールではないのか?
こういう当時としては(今でも?)逆転の発想は、人を強くします。自ずと心を鍛えます。しがみつく「学の伝統」や「思想信条」や「権威ある他者」は存在しないわけですから、自他の知恵、生活世界から立ち昇るふつうの知=健康な知だけが頼りであり、それを生かし合う道だけが残されている、ということになります。真理の保持者はいない、という民主制社会の原理=初心を絶えず賦活化させるこの「考え」を貫くことができるか否か?それが核心。
当時、一人の社会党市議であった福嶋浩彦は、実は、社会党内のルール破り!全戸配布の個人新聞―「緑と市民自治」を出すことで、一人の自立した政治家への道を歩み出したのです。この新聞の発行はその原点です。地域割りして出していた「社会新報・福嶋浩彦版」を廃止し、市内全域に配布する個人新聞を出すということは、当時どれほどの勇気を必要としたか?は、今では想像し難いことでしょう。
最後の確認、「青刷り」を前にして、柏市の岡田印刷・待合室で再び悩む彼の姿は、今でも鮮明に脳裏に焼きついています。「もし、社会党内で困った事態になれば、私が責任をもって彼らを説得する。私が強引に全戸配布を決めたのだから。」という悪魔(笑)武田の断固たる囁き?で、社会党市議・福嶋浩彦は、ルビコン川を渡ったのでした。1988年6月のことでした。
武田康弘