思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「わがまま」が大切です。-シリーズ「教育の原理」つづき

2006-02-22 | 教育

以下は、公共哲学ML内での平野さんとのやりとりです。
この下の「個性」につてのブログ記事についてです。


武田さん、みなさん 平野慶次@京都です。

 個性についてのご意見、頷けることが多いです。

 そもそも個性とは、生まれ持ってくるものですよね。それを学校という文化装置が壊していくのだと思っています。

 本当は生まれた時に備わっている様々な力を教育が立ち枯らせるのではないか、それに対抗するためには、相当なエネルギーが必要とされる、そんな風に考えています。

 脱学校化社会をこそ今目指さないと、持続可能で多様性に溢れる世界は存続できなくなるでしょう。

 勿論、自分のことを考えても何処までが自分の個性に由来しているのか、どこから他者の影響に拠っているのか、その区別はできないです。

 ですが、誰一人他人の人生を歩くことはできないのは確かなことでしょう。

 そのためにも、確かな個性=主観を育つように環境を整備することが大事な気がします。

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平野さま。みなさま。
武田です。

「脱学校化社会をこそ今目指さないと、持続可能で多様性に溢れる世界は存続できなくなるでしょう。」(平野)

確かに、イヴァン・イリッチの「脱学校化の社会」・「脱学校化の可能性」は、示唆に富む本ですね(学校をなくせ!という無茶な主張ではありませんー念のため)。
「過激」ではなく「根源的」という意味でラディカルです。人間の活力を根絶やしにする「管理社会」を支える「制度知」=(いまキム・テチャンさんも克服すべき中心課題だとしている)をどうクリアーしていくかの「原理的思考」たりえていると思います。

「公共」をつくり支える最大のキーは「教育」にある、と私は確信していますが、これは普遍了解的な視点のはずです。ほんらいの教育とは、平野さんも言うように、まさに個性=主観性の深化・拡大をその原理として要求するものです。
そして、ほんとうの教育とは、よい「理論」をつくればどうにかなるような甘い話ではなく、心身全体で考え、泥まみれになりながら「全細胞で思考=実践」しなければ何も見えず・分からず、という世界なのです。

ありがとうございました。感謝!
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追伸―まとめ 武田康弘

「わがまま」が大切です。
自分の思いをそのまま出してみる(言葉や行為に)ことが絶対に必要な「はじめの一歩」であり、それがなければ、何も始まりません。
予め決まっている「正しさ」!?に誘導すれば、必ず、こころからの納得をつくることに失敗し、歪んだ「ヒズミ人間」や型はまりの「紋切り人」しか生みません。「正しさ」を外側から強要する「しつけ」は、ただの「事実人」しかつくらず、人間を人間にしません。無味乾燥な全く魅力のない人間や、おぞましい「犯罪者」を生むだけです。
はじめの一歩が間違っているから、日本人は自己肯定のできない哀れな人間にしかなれないのです。気づいたときがはじめです。何歳からでも遅くはありません。自分の心に素直にー他者の視線などに惑わされず、一からやり直すことを始めましょう!一歩一歩「実存」の階段を昇っていく作業は、最高に愉しく有益です。最もよきもの・すばらしきものは、一人ひとりの心の内にすべて備わっています。外に「超越的なよきものー真理!?」を求めるような悲しく不幸な心から解放されることが21世紀のよき人間の条件なのではないでしょうか。

「主観を消去する日本というシステム」をご覧下さい。



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