よく教育現場で言われます。個性を育てる教育を!
果たして個性を育てる、さらには個性をつくる、ということは可能なのでしょうか?
人間は生まれたときから個性的であり、同じ人間はいません。
ほんらい、人間は個性的であり、個性的でない人はいません。
むしろ、個性的たらざるをえないのだ、といった方がよいでしょう。
それをわざわざ「類型化」するから、無個性―没個性になるのです。
日本の家庭や学校は、もともとは個性的な人間を、わざと没個性化させるように計り、
その後で「個性を育てよう」!というのです。
これはどういうことかというと、集団同調という無言の圧力によって、既存の価値意識・序列意識に従うように調教しておき、その後で、付録のように「特技」や「得意教科」をつくろうというにすぎないのです。
日本人には情緒音痴や紋切り型の「つまらない顔」が多く、存在感の薄い人間が多いのは、前にも書いたように、個性=主観性を消去する詐術=「型の文化」に絡めとられているからです。
個性とは、素直に自分のやりかたで生きると、自然とそこに生まれてしまうものであり、わざわざ「個性的」を意識すれば、「癖っぽい」偏狭な人間が生じるだけです。本質的で、まっとうな人間の面白さ=魅力ではなく、意図的につくられた個性とは、個性ではなくクセでしかありません。
個性とは、めがけるものーつくるものではなく、結果として生じるものなのです。
個性的たろうと意図すると、狭小な世界―クセっぽい閉じた世界しかつくれません。余計なことを考えず、のびのびと考え・話し・行為することー逡巡せず対象にまっすぐに向かっていくことが、よきもの・美しきものを生むのです。
核心は、人間の自発性を悦ぶこと。抑圧せず、信じればよいのです。個性はつくるものではなく、湧き出てくるものなのですから。
武田康弘