人類または人間の話です。
このごろしきりと、わたしたち日本人は・・・とか、日本人として・・・とか、日本の伝統を守るためには・・・ということが言われます。
私はこの歳(53歳)になっても、こういう言辞を弄する政治家や評論家や学者や教育者や役人が何を言っているのかさっぱりわかりません。
中国人という人類(人間)がいる? 韓国人という人類(人間)がいる? 日本人という人類(人間)がいる?
あべこべですよね。
人類=人間としてはみな同じであり、たまたま私は日本という地域に生まれ育っただけです。
日本人という意匠をもった人間がいるのであり、韓国人という意匠をもった人間がいるのであり、中国人という意匠をもった人間がいる、そういうことにすぎません。
普遍的な了解への道が開けるような考えや行為をつくるにはどうしたらよいか? 国家エゴイズム(自分たちだけが特別な存在だという思想)をどうしたら小さくできるか?そういう方向での言動をするように、ひとりひとりが努力する、それがおおきな意味での利益=ほんとうの得をもたらすのではないでしょうか?
日本だけは時代区分まで「一人の人間の生死」で変えるのだ!「元号制度」こそ世界のどこにもない日本の個性だ!
私はそのような頑なな思想=制度は、ひどい自我主義であり、幸福をつくらないシステムでしかないと深く、強く確信しています。開かれた文明―開かれた国家―開かれた思想のためには、まず何よりも自分の心身を開かなければダメですね。
日々、新鮮。日々、創造。
囚われのない自由な心の想いを羽ばたかせてこそ、真の友好、真の国益は得られるのです。
「国益」を先に考えるような思想は、小さく固いです。そういう想念では何事もなしえません。これは原理です。個人でも政府でも、ひょうひょうと「狭い自我」を超えられる者が豊かな世界を生み出すのではないでしょうか?
相手を変えようとするから失敗するのです。己を変えることです。自分が変われば相手も変わります。人間の生・文化は「逆説」でできているのですから。
武田康弘