指揮者、オットー・クレンペラーのつくる音楽について、喜多尾道彦さんは、次のように書いていますが、これは、人間がどう生き、社会はどうあったらいいか?についての答えにもなっています。
「クレンペらーは「全部の音を平等に聴こえるように出してくる。で、それぞれの音に主張させます。それが他の指揮者にないやり方。でも、そうして音を全部出して、平等に聴かせると「対比」が生じますよね。クレンペらーはフレージングで流して聞かせるのではなく、その「対比された音」を特徴とする。一音一音、ここにはこの音があるんだぞと。だからテンポが揺るぎなく、構成がしっかりしていないと、もう音楽にならない。彼の構成力や展開の雄大さは、音を全部正しく鳴らすための「手立て」で、「音そのものの素材」で聴かせる。だから媚びないんですよね。」
次に、同じく喜多尾さんが、クレンペラー指揮ウィーンフィルのベートーベン交響曲5番(運命)の演奏(1968年のライブCD)を評した文章を載せます。
「悠然としたスケールの大きな演奏だ。高弦と低弦、管楽器と弦楽器が対等に拮抗し、譲り合わない。ある音が別の音に従属したり、フレーズのひとつの歯車に絡められたりすることがなく、どの楽器の音もそれによって自己の存在を堅固に主張する場を得ている。最近の指揮者は、なめらかなコーティングをほどこし、聴き手の耳に心地よく響かせようと腐心するが、クレンペラーはまず音に深い呼吸を求める。ひとつひとつの音に潜む息が肺の隅々にまで行き渡り、肺がいっぱいに膨らむ・・」(共に「レコード芸術」誌・昨年05年4月号より)
武田康弘