思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

思想(主観性の知)なき人間は、昆虫の属性を示す存在でしかありません

2006-07-30 | 恋知(哲学)

わたしたち日本人の多くは、いわゆる「読み・書き・ソロバン」の技術を緻密化すること=客観学(事実学)だけが勉強―学問であり、全体的に見、総合判断を可能にする力=「思想」を育むことは、主観的な世界ゆえに価値が低い、という想念に囚われているようです。感想、意見から始まる自分で「生み出すもの」は主観的であり、したがって客観学(事実学)の下に位置すると思っているのでしょう。
もちろん客観学(事実学)は、知の基盤として重要ですが、しかし、それは主観性の知(広義の思想)を豊かなものにするために重要なのであり、それ自体が目的ではありません。 ☆主観学と客観学についてはクリック。

わが日本人は「型」にはまることが偉い!とでも思っているのでしょうか? 精巧にコピーをとる能力の持ち主が優秀とされ、オリジナルを生み出す営みがどれほどのものかについての認識がひどく乏しいのは、上記の主観性の知を価値の低いものと見る想念=様式主義とでも呼ぶべきイデオロギーによります。

共通一次のような客観学(事実学)テストが神聖なテストだと思い込んでいて、その勝者を単純に褒め称える=頭がいい!?というのは、ひどく歪んだ見方でしかありません。著しくは、芸術分野までも、署名入りの「作品」として提示されたものが他者の猿真似だったりします(笑)。一人ひとりの主観性(広義の思想)を豊かに育むことが教育の本来の目的であり、客観学(事実学)の習得はそのための基盤に過ぎないのだ、という認識を皆がしっかりと持ちたいものです。主観性の知を追求する者をコピー者の下に置くような見方は、人間を人間にしません。思想(主観性の知)なき人間とは、昆虫の属性を示す存在に過ぎないのだ、ということを肝に銘じるべきだと思います。

『東大病』という名の精神疾患は、手段としての客観学(事実学)を目的化させる愚がもたらす病です。型の文化―様式が意識を支配する社会では、固定化された「権威」という虚妄が人々の心を縛ります。その病の根は深く、回復は容易ではありません。一般に、日本人には「感情」と「技術」だけがあり、肝心要の自分から始まる「思想」がないのは、封建制の武家政治の後にできた明治政府が、市民主権の思想を育むどころか、弾圧(自由民権運動の息の根を止めるという山県有朋らの策謀)し、『近代天皇制』による国民教化(主観性消去)を徹底させたことによります。 
☆「主観性消去の詐術」―クリック


常識の根を洗い、白紙・大元に戻して腑に落ちるように知り・考えるという恋知(哲学)の営みによって徐々につくられていく「思想の世界」なしに、人間が人間としての意味と価値(善美)をもって生きることはできません。しかし、この認識が弱いために、わが国には思想(主観性)を深め大きくし、普遍化していくことを学ぶ制度・場所がありません。きちんと順を踏みながら意識的に努力することなしには、思想(主観性)の魅力化=普遍化は果たせないのですが、残念なことにそのことを了解している人はとても少ないのです。

知の手段(客観学)だけがあり、目的(主観性の知)がないー手段を目的化させているために、自分の頭で考えるという主観性の深化・拡大が果たせず、せいぜい客観学(事実学)を緻密化・複雑化させることで「思想もどき」を生み出すのが精一杯ということになりますが、この「もどき」の方に価値があると思い込むまでにその倒錯は進んでいるようです。カタログ知のマニュアル人間の方が偉い!?真の思想は排除せよ!?です(笑)。

何よりも楽しく得をする営みー自分の思想を豊かに育てていく営みを、生活の中で始めませんか? 『白樺教育館』は、一人ひとりのチャレンジをしっかりサポートする「友人たちの学校」です。友人同士のような話ことばでの授業、フレンドリーであることと宗教的な匂いが全くないことは、プラトンの学園―アカデメイアと同じです。

武田康弘




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