思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

イリッチ・「脱学校の社会」

2006-12-19 | 日記

いま、30年前に読んだ本をざっと読み返してみた。

イヴァン・イリッチの「脱学校の社会」である。

線の引いてある箇所を中心に、編集しながら、書き写してみる。私の思いとピタリと重なるからだ。


「教育ばかりではなく、現実の社会全体が学校化されてしまっている。・・・裕福な者も貧困な者も同様に学校と病院に依存しており、それらが彼らの生活を導き、世界観をつくり、何が正しいか正しくないかを示してくれる。学校と病院のどちらも、自分自身で自分の治療を行うのは無責任なことだとか、独学で学習するのは信用できないことだとみなすのであり、行政当局から費用の出ていない住民組織は一種の攻撃的ないし破壊的な活動にほかならないとみなすのである。学校、病院、どちらに依存している人々も、制度による世話に頼っているため、制度に頼らない独立的な活動を疑いの目でみるようになっている。個人や共同社会が自分でやりぬく能力を伸ばされなくなってきている度合いは、ブラジルの東北部においてよりも、ウエスト・チェスターにおいて一層顕著であるとさえいえる。どこでも、教育だけではなく社会全体の「脱学校化」が必要である。」

「学校化された社会では、消費者も生産者も専門家になることを求められ、急進的な批判家と思われている人々も、経済成長を第一とするイデオロギーを信奉することを求められる。・・この社会では、社会が新しい世代の教育に責任を負わなければならないという感覚を持ち、これが、必然的に、誰かが他の人々の個人的な目的を設定し、分類し、評価してもよいことを意味するようになる。・・学生はまじめにカリキュラムに従うとき気が狂いそうな感じを抱く傾向がある。なぜなら、不可解な印をつけられようとしているのは家畜ではなく、彼ら自身の人生目的だからである。」

「教育を革新しようとしている人々でさえも、教育機関が彼らの詰め込んだ教育内容のパッケージを生徒に注入する注射器のような機能を果たすことを前提としている。・・教育者と被教育者の関係が供給者と消費者との関係として続く限り、教育研究は堂々めぐりを続けるであろう。・・・・・学校化された社会では、人々の自由は、専門家によってパッケージされた商品の中から選択する自由という狭いものにされてしまう。」

「われわれは、希望と期待との区別を再発見しなければならない。希望とは自然の善を信頼することであり、期待とは人間によって計画され統御される結果に頼ることを意味する。」 (The Deschooling Society 1971)
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希望とは、親鸞のいう他力から生じる。
小賢しい論理を超えて、生の底から湧き上がる心。生きているものへの愛がつくる自由な世界。――――「私の心にはいつも希望がある」
期待とは、自我の計算に基づく閉じた世界。
「君に期待している」とは、君のエネルギー・生き血を差し出すことを求めているに過ぎない。―――――「国家は君に期待している」!「期待される人間像とは○○である」!


「新教育基本法」ほど愚かで非人間的な理念法はありません。国家=政府が個人に特定の「態度」を要求するのは、根源悪です。絶対に認めることはできません。

※ イリッチー「シャドーワーク」・生活のありかたを問う(岩波書店)もぜひ、ご参考に。

武田康弘




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