昨日12月23日の白樺討論会では、
公共哲学とは、名詞ではなく、「公共する哲学」=動詞であること。
したがって、「公共哲学」という実体があるわけではなく、誰かが(学者であれ政府関係者であれ)定義できるものではないこと。
真に対等な対話の精神と実践(金泰昌さん言い方では、「対話する・共働する・開新する」)を公共する哲学と言うのであり、固定した方法・内容・言語をもつのではないこと、
以上をしっかりと確認することができました。その点では共通了解が得られました。
したがって「民知の実践」と「公共する哲学」は重なる点が極めて多いことも明瞭になりました。
いくつかの「違い」もまたはっきりしましたが、この違い=「異」があり、それを互いに認め合うことで、「同」ではなく「和」を生み出すことの重要性を再確認しました。
年末を締めるにふさわしいなかなかよい討論会でした。冗談、軽口も飛び出し、脱線もあり、バラエティー番組!?のような一面も(笑)。
「異」を尊重するのは現実には極めて難しいことですが、金さんとの間ではそれがうまくできています。「同」を求めるダルイ精神から決別し、「和」を実現すること。「共同体」ではなく「共和体」としての社会の実現こそ、ひとりひとりの悦びを生み出す前提であること、これらは、何度確認してもしたりない核心点です。
武田康弘