恋知(哲学)するとは、ほんらいどういうことか?という
ご質問にお答えします。
事象を大きなまとまりとして見る。
多くの人が日常使っている言葉で考える。
「学」を前提としないで、ふつうの日々の生活から考える。
情報知として整理するのではなく、物事や出来事の意味を探っていく。
ほんらいの哲学する=大元から考えるとは、そういう営みです。
哲学史上の知識の有無とは無関係です。上記のように自分の具体的経験から意味をくみとり、意味を見いだす作業です。これを習性とする人を恋知(哲学)者と呼びます。だから人はみな恋知(哲)者になれるし、なったら素敵です。
哲学者とは、何かの専門家ではなく、素人なのです。ただし、自覚した素人ですが。
暗記するだけの人、○○の権威に従う人、専門用語で語る人、公理・公式代入で済ます人は、恋知(哲学)者ではありません。従来のやりかた・考え方でよいかどうか?集団同調せずに、自分の頭をよく使って考えること。せまい自己に固執せず、常識に囚われず、体制に流されずに、何がほんとうか?よいか?を探るよろこび。それが恋知(哲学)。ワクワク・ドキドキする知的体験です。
では、なぜ恋知(哲学)するのか?
そのような本質的思考・探究には、とても大きなエロースがあるからです。幼い子どもは誰でも、この悦びと面白さをしっていますが、大人になっても考えること・知的好奇心を失わない人が恋知(哲学)者です。だから、ほんらいの恋知(哲学)者とは、もっとも魅力ある人間のはず。知・歴・財の所有者ではなく、存在そのもののよさを持つ子どもたち(とその心を失わない大人たち)の同伴者。
武田康弘