日本の思想と政治は、大きく分ければ、「客観神話に囚われた型の文化による国体思想」と、「個々の実存から出発する自由民権思想」の対立です。
どちらの方向で生きるのか?どちらの方向で政治を行うのか?で二つに分かれます。
民知=哲学の初心=恋知としての哲学は、後者の立場に立ちますが、わが国の不幸は、政治的には革新といわれた人たち・政党が、客観主義の思想(とりわけ科学的社会主義・マルクス主義)を掲げていたことです。
これでは、一人一人の生の現実、赤裸々な人間の心、生活世界の現場につき、そこから出発することはできません。「主観性の知」を広げ深め鍛えるという方向に進まず、「客観的真理」という虚構の世界を構築し、それに依拠する弱い精神は、体制派とは異なるとはいえ、やはり一つの権威主義、客観主義に行く他はないのです。
自分が感じ・思うところをよく見つめ、そこから考えを立ち上げるという思考の基本は、正解が決まっているという想念(客観神話)がある限り、しっかり踏まえることができません。
人間の生き方や社会のありように正解はないのです。どう生き、どう考えたらよいか?は、一人ひとりが生活世界の具体的経験から「生み出す」以外にはありません。自問自答し、対話する中からつくりだすしかないのです。ここで大切なのは、誰であれ皆に共通する「生活世界」という立場で考えることです。
このことの深い自覚があれば、ほんらいの哲学とは「主観性の知」であり、対等な自由対話に拠ることが了解できるでしょう。民主制社会では特権者は存在しませんから、それぞれの主観を鍛え、深め、豊かにすることが何より強く求められるのです。
主観・実存に依拠し、そこから立ち上げる以外には、思考が根付く場所はありません。これは原理であり、覆すことは不可能です。「客観神話に囚われた型の文化による国体思想」は、人間の生の原理を踏まえない思想です。「個々の実存から出発する自由民権思想」を明晰に自覚することは、はじめの一歩なのです。
左右の客観主義を超えて、「私」からはじめましょう!!民知の実践を。
武田康弘