4月、政府=公権力による「美しい国」=日本らしさを決定する会議がはじまります。
日本の支配階級とその取り巻きを集めて、政府は「美しい国つくり」のための有識者会議を始めるとのことです。23日付けで、内閣官房に事務局となる推進室を設置しました。政治権力者が、文化のありようを決定する→それを教育現場で強制するという戦前の「日本主義」(深い洗脳の手法)が全面的に復活します。
いよいよ「天皇を中心とした神の国」=「美しい国」つくりが始まります。座長は平山郁夫です。極めて平面的な絵画しか描けない、その意味では私が言う二次元世界のチャンピョン(にすぎない)の彼が座長だということが、ダイナミックな立体世界=実存の自由が生む市民国家とは異なるものであることを象徴していると言えましょう。
しかし、この問題の根っこはその「内容」だけにあるのではないのです。その中身がいかなるものであろうと、政治権力が「文化」のあるべき姿を決定し、それを教育現場で子どもたちに教え込むというのは、言語道断の所業なのです。
こういう日本的な洗脳手法=有識者と呼ばれる平面知のチャンピョンを集めて、「合議」の形をつくり、そこで決めた(システムの構造上、あらかじめ方向は決定されています)内容を「合意」による「よきもの」として国家の名の下に強制する、まさに日本版Manufacturing Consent(合意の捏造)です。
(言語学者チョムスキーのこの概念については、クリック)
せっかく戦後、ある程度つくりあげてきた市民的自由は、「文化」の大枠を国家が決めるという「根源的な洗脳システム」が作動すれば、消去されてしまいます。シチズンシップ(市民精神)に基づく政治は元から断たれます。政治の土台となる人々の思考・想念をある一定の文化(日本らしさを教え込むことによる)の下に統合することで、個人の自由を根こそぎ奪ってしまうからです。人々は、ある思考枠にはめ込まれている自分に気づくことなく「自己決定」!?するようになるわけです。
エリート支配による「美しい国」とは、権威主義による序列宗教の国に過ぎません。スタティックな二次元世界に生身の人間をはめこむ「人間を幸福にしない日本というシステム」の別名です。わが日本人は、ますます自分の頭で考えなくなり、「エリート」の思惑通り動かされる自動人形になっていくでしょう。
日本では、保守派に限らず革新派と呼ばれる人々も、「客観主義」の想念に囚われているために、「あるべき姿」「・・らしさ」という観念に深く縛られてしまいます。人間の生や社会のありようという文化の問題については、ほんらい「正解」(客観的正しさ)は存在しませんが、客観学(答えの決まって勉学)という手段としての知・学しかない日本社会では、「正解」への恐怖心が人の心を支配しているために、自分に感じ思われるところから自分の頭で考える営み=主観性の知=哲学する営みが成立しません。
こういう精神風土の中で、権力者があるべき日本の姿=日本らしさを決定するという行為がどれほど恐ろしい結果をもたらすことか!「洗脳」というレベルではなく、日本的権力システムによる「根源的な想念誘導」は、人権の成立する大元を消去してしまいます。チョムスキーの言う「合意の捏造」は、アメリカ社会では「思想」のレベルですが、日本社会では思想成立以前の「心」にまで及びます。
ますます、「民知」(恋知としての哲学=哲学の初心)という健全な立体知を広めたい・広げなければ、と強く思います。左右の客観主義を超えて、主観性の知としての恋知(哲学)を共に!
武田康弘