不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

昨日ブログが今日の日本テレビ「ザ・ワイド」でー父と植木等さん

2007-03-29 | その他

昨日午前10時30分に出したブログ(この下)が「日本テレビ」の目に留まり、私の父と真浄寺(浄土真宗大谷派)が取材を受けました。今日の午後2時からの「ザ・ワイド」で放映されるとのことです。

なお昨日、植木等さんのお父さんのことを書きましたが、今朝の東京新聞「筆洗」(一面の下段)に詳しく書かれています。以下をご覧下さい。

『植木等さんには『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』(朝日新聞社、一九八四年)という好著がある。
七八年に八十三歳で亡くなった父・徹誠(てつじょう)さんは戦前、浄土真宗大谷派の僧侶ながら、運動と農民運動を連携させ、三重県における明治以降の三大民衆闘争の一つといわれた「朝熊(あさま)闘争」を指導、投獄された経歴がある。
本は、妹の夫で歴史学者の川村善二郎さんとともに、自らの記憶と関係者からの聞き取りで父の足跡をたどり、北畠清泰さんの協力でまとめたものだ。三男を「等」と名付けたのも「絶対平等が人間社会の根本だという宣言で、私はこの名前を誇らしいと思い、本名も芸名もこの名前一本でやってきた」と植木さんは記す。
当初は芸能界入りに激怒した徹誠さんだが、「わかっちゃいるけど、やめられない」のスーダラ節は「親鸞の教えに通じる。青島君はなかなかの詞を作った」と理解を示し、戦後は、頼まれると「割り切れぬまま割り切れる浮き世かな」と揮毫(きごう)する器量人でもあった。
徹誠さんは三重県伊勢市の回船業者の子に生まれる。真珠王、御木本幸吉と縁戚(えんせき)だったこともあり、上京して御木本真珠店の職工となる。そこで大正デモクラシーの洗礼を受け、労働組合運動に目覚めるが、関東大震災後のレイオフで失職、妻の実家の寺を継ぐ形で僧籍に入るという波瀾万丈(はらんばんじょう)の人生』

なお、この『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』(朝日新聞社、一九八四年)は、現在、絶版です。朝日新聞社さん、増刷をお願いします。

武田康弘




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする