思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

イメージが広がるようなことばが恋知としての哲学には必要。

2007-09-24 | 恋知(哲学)

さまざまな想念が広がり、自由にイメージが羽ばたく、という頭脳の状態をつくるようにしないと、価値ある思索・有益な対話はできないと思います。心と頭が固くなっていると、思考が無味乾燥になり、面白みが消えるからです。

人生や社会のありようについて考える恋知=哲学の営みは、愉しく面白く有益でなければ、続きません。それが職業(お金が稼げる)でもない限り、つまらないことや無益なことをやる人はいませんから。

ことばのやりとりは、ほんとうに自由でなければ、ひとつも悦びを生みません。権威者や特権者がいる場所での対話は、対話ではなく、どのように取り繕ったとしても「上意下達」にしかならないでしょう。

はじめに決定や要請や命令が隠し持たれていると、そこからは愉悦の香りは立ち昇らず、押し付けがましい啓蒙主義の厭らしさでむせるだけです。頭脳が活性するとは、自由なイメージが広がると同義です。固く閉じるような言葉や仰々しい言い方は、自我―自己感情の絶対化が背後にあるから生じるのでしょう。自分や組織(学校とか病院とか国家とか)を権威づけようとする底意があるために、ものものしい言い方になるのであり、そういう表現に固執しなければならないのは、本質的に次元が低い=愚かだからだ、としか言えなと思います。

ほんらいの哲学=恋知とは、そのような衒学趣味とは反対の世界だとわたしは確信しています。豊かなイメージが広がるような言葉、平易で明晰、ゆえに深い言葉の使用を広げていくのが、恋知としての哲学=「民知」の考えと実践だと考えています。

武田康弘



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