思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

自由対話は人間の本能

2007-09-29 | 恋知(哲学)

私が私だけの目先の損得を超えて「公論」を形成していくには、文字通りの「自由対話」が必要だ。それなくしては、他に何がどれだけあっても、皆=裸の個人の納得を生む「公論」をつくることはできない、とわたしは確信しています。

なにがよりよいか?なにがほんとうか?を追求するのは人間の先験的な能力であり、不自然な抑圧が働かなければ、真・善・美を希求する心は自ずと芽生え、成長します。お互いになんでも言い合える「自由対話」ができると、頭が動き出し、どんどん前に進むのです。なぜならそれはとても面白いからです。自我の拡張や自分だけの「得」を主張する言動は、嫌らしくて楽しくないですが、皆に共通する「得」を考え出すことには大きなエロースがあります。それが「徳」を生むわけです。それを可能にするのが「自由対話」で、そこには権力者や権威者はいません。成績をつける特権者はいないのです。いまの社会では自我主義=エゴイズムが大手を振るっているために、自由で透明な意識の働きが抑えられていますが、人間のもっとも人間的は能力=本能とは、よりよいこと、よりほんとうのことを探ろうとする欲望であり、この欲望に応えるのが「自由対話」なのだと思います。
【自問自答と自由対話】の実践を!!
と書いて数日前に書いたアマゾンの書評を思い出しましたので、以下にコピーします。

竹内芳郎著「ポストモダンと天皇教の現在」(ちくま書房)

この本の冒頭論文ー「盗まれた自由」は、わたしが主催した講演&対話会を活字化したものであり、レビューを書くのはためらわれるのですが、もうかなり昔の話なので、ご紹介します。
この我孫子市民会館における講演会は、参加者(90名)に大きな感銘を与えたもので、その話の主要部分は、今も深く傾聴すべき貴重なものであることは間違いありません。
ただし、ここで言われている「超越性の原理」という考えは、そのままでは通用しないと思います。世俗の価値意識を相対化する視点は、体験=具体的経験を掘り下げていく【自問自答と自由対話】から生まれるもので、「世俗を超越する原理が必要」と考えると、哲学するという営みが宗教化していくのではないでしょうか。人間の真・善・美への探究心は、先験的な能力であり、真に抑圧のない環境での自由対話は、それを顕在化させ、「世俗の価値」を超えることができる、わたしは自身の体験からそう思います。
ただし、著者の竹内芳郎氏による日本社会と現代文明の分析は鋭く、さすがに一時代を築いた哲学者(ポンティやサルトルの訳者・解説者でもある)だけのことはあります。もっと読まれるべき書です。

武田康弘




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