思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「ふつう」に考えることが哲学。

2007-09-02 | 恋知(哲学)

ふつうに考えること、恋知(哲学)とは、徹底して「ふつう」に考える営みです。ふつうに、というのは、専門用語に逃げずに、大元に戻して、全体的に考えることです。恋知者(哲学者)とは、徹底して「ふつう」に考える人。

ふつうとは、こどものように、囚われなく、という意味です。既成の秩序、考え、常識に縛られずに考えるには、溜め込んだ「知識」を「考える」ことの代用にしない覚悟が必要です。既存の「知」や「学」を前提にすると、まったく哲学=考えることにはなりません。逆に、知識に縛られて、考えは狭小なもの、既成概念のドレイに陥ってしまうからです。

恋知(哲学)対話の面白味・醍醐味とは、誰でもが知らずに縛られている「常識」や「習慣」に抗って考えるところにあります。組織・団体的思考とは対極にあるもので、個人の思考の自由な羽ばたきのエロースです。自由闊達、臨機応変・当意即妙の精神を発揮することは、深いよろこびをもたらしますが、そのためになくてはならぬもの、それが恋知の自由対話です。形式ばらずに、丁々発止のやりとりで自他の生の悦びと可能性を広げる営みは、実に愉快です。

いまの日本人は、若い人もみな既成の価値意識のドレイでしかなく、既成秩序・常識に抗って考える力・心・意思がひどく乏しく、自分自身をまるで、管理社会の管理された部分品のように扱っているとしか見えません。55才のわたしよりも、古い想念やつまらぬ常識に縛られて、心や頭の若い人がいないのは、ほんとうに寂しい限りです。既成の権威者・権力者・成金に頭をさげるようなテイタラクでは、生きるよろこびなどやってくるはずもありません。ただ生存するのではなく、かけがえのないたった一人の人間としてのエロースを存分に発揮して生きるための努力をしませんか。わたしは恋知の自由対話を続けていますが、これを読まれているあなたは、わたしの見方・考えをどう思われるでしょうか?

武田康弘




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