思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

金泰昌さんの公共哲学批判(2)官の存在意味は?

2009-06-19 | 社会思想
「国家公務員は、『公』=国家のために働くものです。それに徹することが大事です。」「われわれ市民は、『公』とは異なる『公共』の領域を拓き、それを豊かにすることを頑張るのです。」

そう金泰昌(キム・テチャン)さんは言いますが、
なんだか江戸時代みたいですね~。

江戸の町民は、世界屈指の町民自治=自分たちで『公共』の世界をつくり上げていました。でも、それとは異なる江戸幕府という絶対権力=『公』がありました。幕府は幕府でしっかり仕事をし、町民は町民で頑張る、そういうことだったのでしょう。

ところが、維新で天皇を担ぎ出した王政復古の明治政府は、江戸の町民がつくっていた『公共』の世界を、『公』(官僚政府)に吸収し、一元的に『公』の支配する天皇制国家を目がけたのでしたね。「国=天皇陛下のために生き・死ぬことが道徳だ」と宣言したわけですが、それは今もなお「靖国神社」の中心思想として残っています。

『公』の一元支配から『公共』領域を拓こうとする金泰昌さんの公共哲学は、なにか江戸時代の町民自治のようですが、幕府という『公』が町民のつくる『公共』とは独立して存在する封建時代ならそれでよいのでしょうが、主権在民の民主主義国家では、市民の『公共』とは別に『公』なる権力が存在することは許されないはずです。

『公』が『公共』から自立して存在することを認めない、そういう意味で『公』を廃棄し、『公共』の下に政府と官を従わせる、それが民主主義の民主主義たる基本思想=要件のはず、わたしは小学生の時からずっとそう確信してきましたが、それがなかなか現実化せず、いつまでも、われわれ市民が「サービスマン」として雇っているはずの役人=官僚が、市民=『公共』の上に君臨する官僚独裁のような「お上国家」から抜け出れないことも確かです。

愚かな話ですが、この官僚に跪(ひざまず)く国民という哀れな現実を支えきた想念が「東大病」であることを、わたしは参議院発行の『立法と調査』に書きました。単なる事実学に支配され、暗記マシーンのような頭脳を優秀だとする無思考文化の生む非喜劇が今のわが日本の現実ではないでしょうか。

話を戻しましょう。

いちばん大事な基本思想は、従来は『公』と呼ばれた政府や官は、市民がつくる『公共』世界を支え・担うためにのみ存在すること。最上位にあるのは、主権者である市民がつくる公論であり、それを現実化することが政府や官の仕事であること。政府や官は、市民から自立した権力や主権者の論理とは異なる独自の論理を持ってはならぬこと。以上です。

したがって、ほんとうに価値ある【公共哲学】とは、金泰昌さんが『公』と呼ぶ官は、『公共』を支え・担うためにのみ存在することを明白にし、その現実化のために社会的、教育的、学問的な努力をするものです。そのように考え、行為したとき、はじめて公共哲学は、皆のものになる可能性が生まれます。

金泰昌さんの「公と公共を分けることが大事」という思想=言い方は、古い思想=常識を引きずったまま『公共』を拓こうとする営為が生んだものと言えますが、それでは少しも前進しないのです。


武田康弘
コメント (16)
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