思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

公と公共の分離を柱とする「公共哲学」への批判②ー荒井達夫と武田康弘

2009-06-28 | メール・往復書簡
この下からの続きです。


公共哲学論争の結論 (荒井達夫)
2009-06-21 17:05:46

「公」と「公共」を区別する思想は、民主主義の原理に反しており、現実の法制度においてもそのようにはなっていない。これが結論です。

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てつがくにおける結論とは? (タケセン(武田康弘))
2009-06-22 13:46:03

荒井さんの結論は、一般の論理としては「その通り」ですが、哲学の議論(=わたしのブログの文章=論理)としては、これだけでは、少しマズイのです。

というのは、『哲学』とは、人間の生きる意味の探究(ほんとうに価値ある生とはどのようなものなのだろうか)を音楽における通奏低音のように絶えずもちつつ、人間の全体性の論理(単なる論理的整合性に留まらず)を追求するものだからです。

ここでの話で言えば、金さんは、どうして公と公共という言葉を使い分けるのだろうか?また、その主張に共鳴する人がなぜいるのだろうか?その地点にまで進み降りた上でなければ、「結論」は出せないのです。ここに哲学(人間の全体性の論理)としての深さと困難と魅力があるわけです。

わたしの言い方(結論)は、こんな感じです。以下をご検討下さい。

荒井さん
これは、一応は「結論」ですが、
この問題を論じる上で一番大事なのは、何故このような思想が語られ、それが一定の力をもつのか?を知るところにあります。

日本では戦前の近代天皇制による「国体思想」が長いこと社会全体を支配してきたために、私=個人のことがらに対して、皆に共通することがらは、「官僚政府が行う公」だと思われてきました。先に書きましたように、江戸の庶民文化は民がみずから公共世界をつくっていましたが、富国強兵をめがけた明治の天皇制官僚政治の下では、官府が民の公共を奪い、民の自発性を公に吸収してしまったのです。その結果が「お国のため」という言い方になり、皆のためになることがらを担うのは、すべて官府が行う公=国だ、という想念を国民全体が持つようになったのです。

そうであるために、「市民の意思が生む公共世界」という見方・自覚が弱いのです。だから、金さんの「官が担っている公に対して、市民が担う公共の世界を広げよう」という主張がリアリティを持つわけです。確かに現実の日本社会を見ると、「官」は誰が何を言おうともビクともせず、官僚は決して従来のやりかたを変えようとはしませんから、市民は絶望的になります。そこに公と公共を分けて考える、と言う金さんの主張が「救い」に見える理由があるのです。

しかし、金さんのように現状認識と原理的な思考を一緒にしてしまうと、結局は「現実」を変革する力を持たず、敗北するだけですので、わたしは、金泰昌さんの公共哲学に対して繰り返し批判してきたわけです。

現実次元における妥協や曖昧性はものごとを実際的に円滑に進める上で大切ですが、原理次元での詰めの甘さや戦略的な妥協は、混乱や停滞を生み、さらには逆効果になってしまいます。いま一番必要なのは、民主主義原理をさまざまな具体的な場で検証し、それに基づく現実の改革を進めていくことだと思います。その営みは、わたしたち自身の自己変革=生きるエロースの豊饒化につながります。ぜひ共に!!
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三元論の論理的破綻について (荒井達夫)
2009-06-22 20:50:20

 確かに一般の論理を説明しただけで、そこに止まっていては、哲学になりません。「金さんは、どうして公と公共という言葉を使い分けるのだろうか?また、その主張に共鳴する人がなぜいるのだろうか?」が、考えるべき最も重要な問題だと思います。ただ、私が主張しているのは、その一般の論理の段階で「公・私・公共三元論」が破綻しているということです。つまり、三元論が妥当かどうかは、哲学以前の問題であることを「私の結論」として述べたのです。以前、「三元論は、現状説明のための理論であり、公共哲学の原理ではない」と述べたのもそのためです。
 「金さんのように現状認識と原理的な思考を一緒にしてしまうと、現実を変革する力を持たない」というのも、まったくそのとおりです。現状認識と原理的思考の混同は、哲学以前の単なる論理的思考も妨げてしまい、法の制度を正しく理解することを不可能にしているようです。憲法の民主主義原理に立脚する国家公務員制度を明治憲法下の「天皇の官吏」のように理解するようでは、キャリアシステムの問題など解けるわけがありません。
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ほんとうの「結論」とは? (タケセン=武田康弘)
2009-06-23 10:37:27

もちろん、論理的にはその通りです。
しかし一番大事なのは、金さんが主張し続けてきた「現実問題」を引き受け、乗り超える、また、できるならば相手の納得を生む(誰に対するどのような批判も根底にはその意識が必要)ためには、どのように考え、言うか?です。

ただ論理的な間違いを指摘する、その次元を超えて(もうすでにとっくに超えているわけですから)「問題」(=主権在民の民主主義を阻害している日本における官僚制度の現実とそれを支える想念)の解決の方途を明瞭に示すことが、ほんとうの「結論」なのです。哲学の論議とは、ディベートの表層的論理(=勝ち負け)とは截然と異なり、遥かに深い意味と価値をもちます。

生きる意味(エロース)への探究を底に持たない論理は【無】であり、生にとってよきものを何もうみません。そういう論理しか知らないのが、従来の日本の「官」であり、それを根底から変革するのが、ほんらいの哲学の使命です。

荒井さん、よい対話ができ、とても面白くなりましたね。
みなさんもぜひご参加ください。

タケセン=武田康弘

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「公」と「公共」 (荒井達夫)
2009-06-24 20:45:35

「公共的良識人2009.5.1」で、金泰昌さんが、「公」は「官」の論理であり、「公共」は「民」の論理である、と述べているので、反証として以下の立法例を追加しておきます。

「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。」(民法90条)

つまり、民法は「公」の秩序を守る法律です。

また、次は、公安調査庁設置法の規定です。

(任務)
第3条 公安調査庁は、破壊活動防止法 (昭和二十七年法律第二百四十号)の規定による破壊的団体の規制に関する調査及び処分の請求並びに無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(平成十一年法律第百四十七号)の規定による無差別大量殺人行為を行つた団体の規制に関する調査、処分の請求及び規制措置を行い、もつて、公共の安全の確保を図ることを任務とする。

つまり、公安調査庁は「公共」の安全の確保が目的の機関です。
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荒井さん

現行の法律文における「公と公共の同一性」についての例証をあげても、金さんの公共哲学批判としてはピンときません。言葉の定義の問題に留まり、哲学次元に届かないからです。

「金泰昌さんが、「公」は「官」の論理であり、「公共」は「民」の論理である、と述べているので、反証として以下の立法例を追加しておきます。」(荒井)とありますが、
実は、ここでの金さんの言わんとするところは、従来の官僚政府の言動・思想を「おおやけ」と呼び、比較的最近の市民の自発的な言動・思想を「公共」と呼んで区別しないと、市民の主体性が育たないということなのです。なぜなら、官僚の力があまりに強い(官僚独裁国家とさえ言われる)日本社会では、官と市民を切り離さないと、官のもつ強大な権限や惰性態の力に従う他なくなる、という現状認識があるからです。

したがって、金さんの思想への批判は、法律論や言葉の定義のレヴュルでは不十分で、いまの現実を変革するより説得力のある新たな見方=思想を提示しなくてはならないでしょう。それが、わたしの【民主主義の原理を明晰化する民知としての哲学】です。もちろん論理批判はするのですが、相手が言いたいことの中身を引き受けて、より深い思想を提示し、より大きな普遍性を産み出そうとする努力なのです。それが民知(という最善の知)です。

タケセン=武田康弘
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公と公共は区別できない (荒井達夫)
2009-06-25 22:22:34

法律では「公」と「公共」の区別はしておらず、「公共」に反する「公」も想定していません。これは、現行法制が日本国憲法の民主主義原理・国民主権原理に立脚しており、「公」も「公共」も「全国民に共通する社会一般の利益」の意味を持っているからです。ですから、法の運用実態において「市民の公共」に反する「官の公」という事態が生じているのであれば、それは法の理念としてはあってはならないことと考えなければなりません。ところが、思想の大元(原理)において「市民の公共」に反する「官の公」も認めることになれば、当然そうなりません。それで具体的にどうなるかが重要な問題です。

例えば、官民癒着の最悪のケースである官製談合は、公務員が「全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」(憲法15条2項)の「一部の奉仕者」となり、「公共の利益」(国家公務員法96条1項)の実現を妨げることになるから許されない。これが通常の法解釈です。しかし、法の理念で「市民の公共」に反する「官の公」を認める場合、これらの規定は無意味に解釈され、そのような事態が生じても法的には「特段問題がない」ことになります。

また、国家公務員は「市民の公共」ではなく「官の公」を実現するためにある、との考えに従えば、国家公務員法96条1項は、「すべて職員は、国家の利益のために勤務しなければならない」と規定することになります。つまり、「全国民に共通する社会一般の利益」に反してでも、「国家の利益」を追求する義務が国家公務員に課せられるのです。
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荒井さん

これは、説得力があります。
社会に関する思想(もちろん法律や法律論も含む)では、ふつうの市民・国民にとって有益になる思想か、否か?それが最大の問題でかつ基準となりますから、そこが分明になる言い方が必要ですよね。ほんとうのてつがく(=恋知としての哲学)に通底する思想とはそういうものでなければいけません。
いいですね。

武田

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現状認識と原理的思考の混同について (荒井達夫)
2009-06-27 01:52:03
現状認識(法の運用実態)と原理的思考(法の理念)の混同は、哲学以前の単なる論理的思考(法の解釈)も妨げてしまい、法の制度(国家公務員制度)を正しく理解することを不可能にしてしまいます。金泰昌さんの「公共的良識人2009.5.1」での以下の発言がそれを明瞭に示しています。

「官僚の世界にはいわゆる通説的見解というのがあるという話を聞いたことがあります。それは自分たち、即ち国家公務員たちこそ国民全体の奉仕者だという位置付けです。そして国民全体に関連する事柄についての正当な思考と判断と決定と執行の主体であるということでもあるというのです。その法的根拠が国家公務員法の中に明示されているということを強調します。だから自分たちがやることはすべて国民全体のための法的に認定された正当な公務であり、だから自分たちこそ公共性の担い手でもあるという理屈です。だから公と公共とは基本的に同じものでありそれらを区別する必要はないというのです。」

国家公務員法96条1項は、「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない」と、国家公務員の在るべき姿を「法の理念」として規定しているのであって、国家公務員の現実の職務遂行(法の運用実態)が常に「国民全体の奉仕者として、公共の利益のために」なっているなどと言っているのでありません。むしろ、そうならない可能性があるので、戒めるために規定しているのです。国家公務員は「一部の奉仕者ではない」(憲法15条2項)のだから、何時も「全国民に共通する社会一般の利益」の実現を目指して努力しなさい、官製談合などは絶対に許しません、という義務付けの趣旨の規定なのです。(だからこそ、公務員制度・公務員倫理の根幹をなす規定と言えるのです。)

ですから、この規定があるからといって、金さんの言うように、現実の国家公務員が常に「国民全体に関連する事柄についての正当な思考と判断と決定と執行の主体である」と考えられるわけではないし、「自分たちがやることはすべて国民全体のための法的に認定された正当な公務」になるわけでもないのです。

また、「公と公共とは基本的に同じものでありそれらを区別する必要はない」のではなく、法律の明文で「公の利益」ではなく、「公共の利益」と規定されており、法解釈上は議論の余地がないということなのです。

私は、金泰昌さんのような国家公務員法の解釈を聞いたことがありません。

以上は、言うまでもないことですが、哲学以前の問題です。
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「公・公共」と法の読み方 (荒井達夫)
2009-06-27 11:01:40

「公の施設」(地方自治法96条1項11号)、「公の機関」(同法252条の2第6項)「公の秩序」(民法90条)、「公民館」(社会教育法12条)、「公的賃貸住宅」(住宅確保要配慮者に対する賃貸住宅の供給の促進に関する法律5条)、「公共の福祉」(憲法13条)、「公共の安全」(警察法1条、公安調査庁設置法1条)、「公共の精神」(教育基本法前文)、「公共の利益」(国家公務員法96条1項)、「公共機関」(災害対策基本法1条)、「公共的施設」(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律2条2項)、「業務の公共性」(日本銀行法5条)・・・・・・・

法律では「公」も「公共」も、全国民や地域住民や一般市民に共通する「社会一般の利益」の実現という「理念」の下に使われており、その「法の理念」に基づいて、それぞれの「法の制度」が出来ています。現行法制は、憲法の民主主義原理・国民主権原理に立脚しているからです。

そこには、金さんのような、「公」と「公共」は異なる、「公」は「官」の論理で「公共」は「民」の論理である、という考え方は存在しません。

ですから、金さんのような発想で法律を読むと、とんでもなくおかしなことになります。それが、現状認識(法の運用実態)と原理的思考(法の理念)の混同であり、憲法15条2項と国家公務員法96条1項の「聞いたことのない」解釈は、その典型例と言って良いと思います。
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感覚的な話 (荒井達夫)
2009-06-27 17:09:08

少し感覚的な話になりますが・・・・・

私は仕事が国家公務員ですが、金泰昌さんのように、「市民の公共に反する官の公も認める」と言われると非常に困ります。なぜなら、官製談合等の深刻な不祥事は、明らかに「市民の公共に反する官の公」という現象であり、そのような現状を肯定する結果になってしまうからです。金さんの思想では、公務員の中から改革する機運を起こすことはあり得ないと思うのです。

これまでくどくど見てきたように、現行法制は建前は憲法の民主主義原理・国民主権原理に立脚しています。ですから、続発する公務員不祥事を目の前にして、公務員が考えなくてはならないのは、「法律をその趣旨目的に沿って誠実に執行すること」ではないかと思います。金さんの考え方では、それを逆に困難にしてしまうと思います。

また、私もいずれ退職して公務員でなくなるのですが、その時に「市民の公共に反する官の公も認める」という思想では、官に対して中途半端な批判しかできず、真に国民・市民のための政府を求めることができないのではないか、と思います。
キャリアシステムと公共哲学 (荒井達夫)
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荒井達夫
2009-06-28 10:37:35

続発する公務員不祥事を目の前にして、公務員が考えなくてはならないのは、原点に立ち返って「法律を誠実に執行すること」(憲法73条1号)であると思います。そのためには、公務員が常に市民の目線に立って、全国民や、地域住民や、一般市民に共通する社会一般の利益を実現するには具体的にどうすべきか、をきちんと議論し考えていくことが必要です。そのためには、土台となる哲学思想(公共哲学)が必要であり、私は、それは「主権在民」の意識を公務員に徹底させる強い思想でなければならないと考えています。

例えば、国家公務員のキャリアシステムは、思想的に「天皇の官吏」の流れをくむ、国家公務員法に違反する人事慣行であり、今日の行政における最重要の課題となっているところです。キャリアシステムは、天下りと省庁割拠主義の温床であり、行政の無責任の本質的原因と言えますが、私は、さらにキャリアシステムが生み出す公務員の「特権的意識」が、一般市民の常識・利益(市民的公共)とかけ離れた「官」の歪んだ想念(官の公)を形成し、民主的運営を第一とする公務(国家公務員法1条)に深刻な悪影響を及ぼしてきたと考えています。

つまり、キャリアシステムの問題は、単なる組織・人事の実務的問題ではなく、日本の民主主義の在り様を大きく左右する思想的問題とも言えるのですが、この問題は「主権在民」の意識を明晰にする強い思想でなければ、解くことができません。ところが、金さんのように、「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、行使される」、「市民の公共に反する政府の公も認める」とするのでは、キャリアシステムを廃止するどころか、それを維持強化する結果になってしまうことは明らかです。私が「公・私・公共三元論」に強く反対しているのは、このためです。
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対話により議論が深まりました。 (タケセン=武田康弘)
2009-06-28 11:34:55

金泰昌さんは「現状認識(法の運用実態)と原理的思考(法の理念)を混同している、という荒井さんの指摘は、わたしもまったく同感です。
原理次元の話と現実次元の話を同一平面で語れば酷い混乱を招き、非現実的な話にしかならないことを、わたしは幾度も強調してきましたが、
金さんは、自分は「三次元相関的」に考えているのであり、公・公共・私の三つを並べて「三元論」を主張しているのは、山脇さん(山脇直司東大教授)らである、と言っています。
ところが、金さんは、わたしとの対談でも、繰り返し、自分の公共哲学の要諦=一番大事な点は、公(おおやけ)と公共の分離にあることを強調してきました。
これは、まさしく、現状認識と原理的思考の混同が生みだした「思想」だ、としか言えないのです。思考は、充分に立体的でダイナミックでないと、「現実」の前に敗北する考え方しか生まないのです。

また、荒井さんの「感覚的な話」ですが、
これは、荒井さんの生きる現場を踏まえた実存的な視点からのもので、大変に説得力があります。
「官僚の方は、国家=公のために働くのです。」(金泰昌)と言われ、「市民的な公共」とは異なる世界=公を自覚せよ、と言われれば、一人の人間や一市民としての、あるいは家庭人としての彼らの常識や生活とは異なる発想で仕事をしなければならないことになりますが、それは、官僚が天皇の官吏とされた戦前の日本でならまだしも、主権在民の日本国憲法下においては完全に間違った考え方だ、と言う他ないのです。現代の官僚とは、「主権者である国民に雇われた国民サービスマン」であり、市民的公共につき、それを支え、担保するのが仕事=公務なのです。憲法に規定されている通り、特定の人や団体でなく、国民全体(=市民の公共)への奉仕者でなければならないのですから。


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公と公共の分離を柱とする「公共哲学」への批判①ー荒井達夫と武田康弘

2009-06-28 | メール・往復書簡
以下は、「金泰昌さんの公共哲学批判ー公と公共の分離」への荒井達夫さんのコメントと、わたしの返信コメントです。
(10000字を超えてしまい、一度に出せないので、二回に分けて載せます。)


金泰昌さんの思想について3 (荒井達夫)
2009-06-20 08:20:05

 日本国憲法の制定に深く関わり、さらに第3代の人事院総裁を務めた故佐藤達夫氏は、次のように述べています。
 「昭和22年新憲法の実施とともに、公務員は〝天皇の官吏″から〝全体の奉仕者″となり、その結果、公務員制度についても根本的改革が行なわれました。」(「人事院創立15周年にあたって」『人事院月報』昭和38年12月号)
 この佐藤氏の見解は、現在のすべての公務員の立脚点を明らかにしていると言えますが、それは日本国憲法下の国民一般の理解を前提とするものです。
 「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、行使される」、「市民の公共に反する政府の公も認める」という金さんの思想は、これに真っ向から反すると言わざるを得ません。
 この点について、公共哲学の関係者の間で徹底的に議論していただきたいと思います。



公と公共について (荒井達夫)
2009-06-21 12:12:39

 公・私・公共三元論者は、「公」と「公共」は明確に意味が異なっており、常にそれを意識しなければならないと主張していますが、これがそもそもの間違いの原因と思います。
 例えば、国家公務員法第96条は、「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない。」と規定していますが、この規定を三元論では説明できません。国家公務員は「市民の公共」とは異なる「官の公」を追求する存在である、というのが、三元論者の主張ですから、それに従えば、同条は「公共の利益」ではなく「公の利益」と規定されているはずだからです。
 次の警察法の規定も、例にあげることができます。
(この法律の目的)
第1条 この法律は、個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持するため、民主的理念を基調とする警察の管理と運営を保障し、且つ、能率的にその任務を遂行するに足る警察の組織を定めることを目的とする。
 警察の目的は、「公共の安全」と規定されているのです。また、ここで「公共の安全」と書こうと、「公の安全」と書こうと、意味は同じです。
 このような立法例は、他にもいろいろあります。つまり、「公」か「公共」かという議論自体が、現実とかけ離れており、ナンセンスと言うほかないのです。
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タケセン(武田康弘)

わが国における「戦前レジーム」の発生源は、明治時代前半に、自由民権運動を徹底して取り締まった明治政府(山県有朋ら)が、天皇主権の大日本帝国憲法の下で、市民的な公共性を抑え、天皇制国家=「公」に従う臣民としての【公民教育】を、小学校を中心に徹底させたところにある、これは誰も異論を挟めない事実です。

その名残りを、戦後も「官」が引きずってきた現実(それを象徴するのがキャリアシステムであり、そのシステムを支える想念が「東大病」です)が、公共問題を分かりにくくさせているのです。

端的には、有罪率が100パーセント近い検察と司法との癒着関係は、わが国を除き、独裁国家以外にはありませんが、警察や検察の閉鎖的で独善的な組織の実態は、明治以来の旧態依然とした「官」のありようを象徴するものです。冤罪事件が日常的に起きますが(月刊「冤罪ファイル」を参照)、誰も処分されず、足利事件で「異例」の陳謝が行われても、冤罪の被害者の方が深々と頭を下げてしまう現実を見ても分かるように、わが国では依然として「公」と呼ばれてきた「官」が、市民の上位にあるわけです。これが現実です。

だからこそ、公と公共の区分けを要請するような思想(金泰昌さんの公共哲学)は、今後、わが国をその内実において、市民主権の民主主義国家にしていくための「障害」にしかならないのです。「官」は、その仕事の内容も組織運営のありようも、わたしたち市民が考える公共性=ふつうの市民の良識に合わせなければならず、もしそうしないのなら、その存在自体が民主主義の原理に反するわけですから、認められないのです。

武田康弘
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