思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

昨日からの続きのコメントですー「公共哲学」論争。

2009-06-29 | メール・往復書簡
金氏の発言に関して (山脇直司)
2009-06-28 16:56:23
公・公共・私の三つを並べて「三元論」を主張しているのは、山脇さん(山脇直司東大教授)らである、と言っています。
とあるのはどういう神経でしょうか!私は並列的な三元論はとっていません。どこまでも「民の公共」を基盤として、「政府の公」の正当性を考える民主主義思想を展開しているのです。
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公・私・公共三元論とは何か (荒井達夫)
2009-06-28 19:48:53
「公・私・公共三元論」は、あくまでも「現状説明のための理論」として見れば、日本国内の諸問題を考える際に有用な視点を提供する理論と言えるのではないかと思います。例えば、薬害肝炎問題は、厚生労働省における「公」と「公共」の乖離の問題と言うことができますし、また、防衛省事務次官の汚職事件は、「滅私奉公」が「滅公奉私」に転じた事件として説明できます。問題の重要な側面を際立たせて、わかりやすく説明できる理論と言えます。ところが、「公・私・公共三元論」を哲学思想の大元の考え方であるかのような説明がされているために、主権在民(民主制原理・国民主権原理)との整合性を考えれば著しい論理矛盾となり、また、主張の全体が曖昧で不明確、さらには意味不明なものになってしまっていると思います。

公・私・公共三元論とは何か2 (荒井達夫)
2009-06-28 22:51:24

佐々木毅・金泰昌他編『公共哲学』全20巻(東京大学出版会)では、編集方針として次の4点を掲げております。ですから、これらが学問としての公共哲学の代表的見解と言えるのではないか、と思います。普通はそう考えるでしょう。

①公共性を、個を殺して公に仕える「滅私奉公」のような見方ではなく、個が私を活かし、公を開く「活私開公」という見方でとらえる。
②従来の「公」と「私」という二元論ではなく、「公」と「私」を媒介する論理として「公共性」を考える。
③公共性の担い手について、国家が独占するという観点よりは、市民や中間団体の役割を重視するという観点から議論を進める。
④グローカル(グローバルかつローカル)なレベルでの公共性について積極的に考慮する。

ここで、重要な点は②にあり、これを単なる「現状説明のための理論」としているのか、「哲学思想の大元をなす考え方」としているのか、が問題です。前者であれば「哲学以前の問題」であり、後者であれば「現状認識と原理的思考の混同」になると思います。
白樺思想と大学の公共哲学 (荒井達夫)
2009-06-29 00:20:05
以前、白樺教育館では、金泰昌さん、山脇直司さん、稲垣久和さん、の3人の大学人との座談会が行われました。その後に私が書いた論文です。今になって非常に参考になると思いますので、是非お読みください。金泰昌さんの依頼で書いたにもかかわらず、「公共的良識人」に掲載されなかったものです。現在、白樺教育館のホームページで公開されています。

83. 幻の「白樺特集号」『公共的良識人』07年2月号掲載予定の原稿公開

白樺思想と大学の公共哲学

白樺教育館では、金泰昌さん、山脇直司さん、稲垣久和さん、の3人の大学人との座談会や討論会が開催され、私はそのほとんどすべてに参加してきました。それらを通じて、私は、白樺教育館で行われている哲学の実践と大学の公共哲学には本質的・根本的な違いがあることを知りました。
 例えば、東京大学出版会のシリーズ「公共哲学」では、あたかも「公・私・公共三元論」が公共哲学の原理のように書かれていますが、民主制社会において、民の支持しない官=「公」を想定するのは、原理論的には成立しないはずです。現実問題として「官」がイコール「公」であるかのような事態が続いてきたことは事実だとしても、それは原理の問題ではないと考えます。「二元論的発想ではダメだ。三元論的発想にならなければ問題は解決しない。」という言い方は、見方・方法を哲学の原理にしてしまっているように聞こえます。これでは、多くの人の納得が得られず、結局、大学人が一般人を啓蒙するという時代遅れの哲学運動にしかならないはずです。
 私は武田康弘さんが提唱する民知としての白樺哲学を学ぶことによって、大学の哲学の大きな欠陥は、書物からの哲学的知識の吸収ばかりで、生活上の現実に即して個々具体の問題を生活者の立場からていねいに考えるという作業がないところにある、と考えるに至りました。
 ただし、この点は、金さんと一般の大学人の方々とでは、まったく異なるように思われます。金さんの場合は、ご自身の強烈な実体験に基づいて哲学論を展開されており、その並はずれた説得力の強さは「公・私・公共三元論」という理論などではなく、金さん個人の人間的魅力、その存在そのものから出てくるように思われました。
 なお、金さんは、12月23日の討論会で、三元論は公共哲学の原理ではなく「用」=現実運動上の働きの理論である、と説明されました。

また、民主社会における公共哲学は「民から開く」もの以外にありえませんが、その点でも大学中心で行われている公共哲学には問題があると考えています。「民から開く」という視点は、日本社会の歴史と現状を考えれば、いくら強調しても強調しすぎることはないと言えるほどに重要ですが、大学の公共哲学では、その点の認識がまだ非常に弱いと思います。なぜなら「民の公共」と言うだけで、それが現実具体的にどういうことなのか、極めて不十分な説明しかされていないからです。また、どうしたら「民の公共」が実現するのか、その可能性を広げ、現実のものにするためにはどうしたらよいかについては、ほとんど説明がないという状況です。
 金さんが強調する「対話」(対話する・共労する・開新する)の重要性は、当然のことであり賛成ですが、では、なぜそれが今まで日本社会ではできなかったのか、どうすればできるようになるのか、そのために必要な哲学の原理は何か、を明確にする必要があると思います。

この点、白樺思想は大学の公共哲学とまったく異なります。
思想の原点を日々生きる生身の人間、生活者であることに求め、個々人がすべて異なる欲望存在であることを真正面から正直に認める。このことの深い自覚が他者に対する配慮と尊重を生みだし、そこから自ずと公共性が開かれていく。一人一人が、何より主観を大切にして、よき人生とは何か、よりよい社会とはどのようなものかと問い、自由で対等な対話を生活の中で日々実践するところに「民から開く公共」が始まる。原点を個々人のありのままの主観に置き、それを互いに鍛え合う自由対話に依拠するというのは市民社会の原理であり、世界に通用する普遍性を持つ思想だ。個々人の実存から発する「民から開く公共」は必然的に地球的規模の公共につながる。
 これは、武田さんから学んだ私なりの白樺思想の理解ですが、ここには「民の公共」の意味とそれを実現するための方策について、基本となる考え方が簡明に示されています。ふつうの人なら誰でも理解可能で、「そうなんだよな」と腑に落ちる感覚を持って実践することができる、まさに哲学の原理であると思います。一般市民において「異」を前提とする「対話」は、このような思想に基づかなければ成立しないでしょう。討論会での金さんの発言も、私が理解する白樺思想とその芯はほとんど重なるものだと感じました。
 「民から開く」という意味で言えば、大学人中心の公共哲学より市民の集まりである白樺の思想の方がはるかに優れているというのが私の実感です。また、市民が求める哲学(人生や社会のありようを深く問う哲学)が白樺の方にあるのは事柄の性質上当然であり、これは、もはや否定しようのない事実だと思います。もともと哲学も公共も、ふつうの市民の生活世界から出てくるものであり、そうである限り、大学人中心の哲学・公共哲学はその存在意義を根本から問い直す必要に迫られているように思えてなりません。

ところで、今日、公共哲学は特に公務部門において注目されつつあるようです。しかし、私は、それを大学人中心の公共哲学に求めることに強く批判的です。全体の奉仕者(憲法15条)である公務員こそ公共哲学を身につけておくべきことは間違いありませんが、そもそも「民から開く」という哲学が十分に展開されていない状況で、大学教師が公務員に「公共とは何か」を教えることは甚だしい矛盾に他ならないからです。また、公務員が「公・私・公共三元論」を哲学的原理のように捉え、それを知識として覚えるだけで、その意味や働きについて深く考えることをしなければ、形だけの「公共」となり、タウンミーティングの「やらせ質問」のような公共性に反する有害な結果を招くおそれがあるでしょう。白樺のような対等な対話・討論を生み出す哲学を背後にしっかり持たなければ、対話・討論は形だけのものにしかならないはずです。
 大学の公共哲学が公務部門において真に有用なものとなるためには、民から開く公共哲学の原理である白樺の思想を土台に、それを作り直す必要があると考えています。そのためには、大学教師も、まず一市民、生活者であるとの深い自覚の下に、その立場で思考し行動する必要がある、と自戒も込めてそう思います。それが実現すれば、大学の公共哲学は、民主社会の基礎となる市民の日々の哲学実践に対し、その哲学史や哲学説の高度な専門的知識を活かし、側面援助が可能になります。まさに本来の「哲学する」ことが実現するのではないかと思います。一人でも多くの大学人の皆さんが、一日も早くこのことを理解されるよう願っているところです。
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大きな誤解! (山脇直司)
2009-06-29 02:43:13

荒井さん、相当にバイアスがかかった投稿に思えたので、あえて反論を述べさせていただきます。実際のところ、大学での公共哲学の授業は、大学人のための公共哲学ではなく、実社会に出て行く人のための、また社会人として大学院に入ってくる人のために行われています。学会がないのもそのためです。その点をあなたは全く誤解しています。私は、権威主義的なエートスを払拭できない国家公務員よりも、地域住民に密着した地方公務員やNPOの間に公共哲学の理念が広まることを期待していますし、実際に何度も集会に呼ばれて、対話を重ねています。ところで、荒井さんは自ら絶賛する白樺教育館「以外の方々」とどれだけ多くの緊密な会話を重ねていらっしゃるのでしょうか?もしそうでなければ、貴方の意見は単なる白樺教育館のプロパガンダの記事になってしまうと思いますので、あなたがどれだけ幅広く活動をしているか、その実情を聞かせてください。
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内容的には? (荒井達夫)
2009-06-29 05:53:16

山脇さん。
「白樺思想と大学の公共哲学」、内容的にはいかがでしょうか。
私の活動について解説しても、主張が妥当であることの裏付けにはなりません。
内容的な批判を、よろしくお願いします。
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ぜひ、有意義な自由対話を! (タケセン=武田康弘)
2009-06-29 12:45:45

荒井さんと山脇さんの忌憚のない対話、とても生産的だと感じます。いいですね。

国会所属の官僚である荒井達夫さんと、公共哲学運動をすすめる東京大学教授の山脇直司さんが、従来の狭い立場を超えて、民主主義を深め広げるために思考錯誤されるのは、実に素晴らしいことだと思います。ことばの最も深い意味での「自由対話」の実践は、まさに最良の意味での哲学なのですから。

ぜひ、また直接顔を合わせて、たのしく議論と歓談をしましょう!!真の「民知」をうむためには何をどうしたらよいのか?みなの力を合わせたいですね。


コメント (3)
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