思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

自我、個人主義、主観性の知、純粋意識、体験・・・メール哲学対話

2010-02-02 | 恋知(哲学)


以下は、内田卓志さんとのメール対話です。


武田先生

確かに哲学は知識の累積ではないですね。
膨大な知識の集積は、ある仕事としては必要です。大学で哲学史を研究する場合など。
かつて丸山真男は、決して政治思想家と言いませんでした。政治思想史(研究)家といっていましたね。学問上の立つ位置を自らを知っていたのです。

先日石橋湛山の言葉を引用しましたが、「自己の立場についての徹底せる智見」つまり主観性の知について、やはり徹底的に考えないとだめで、考えたら失敗しながら行動する。変なエリート意識を捨てて裸の個人でぶつかって行くことですね。

哲学史的な知識があって語学も出来るのは研究者としては素晴らしいですが、哲学は専門家だけの開かれた知ではないですね。ここを崩すのは至難のことで、先生は30年継続してこられました。本当に民が納得して「そうなのか」と腑に落ちることが必要で、それがなければ専門家で勝手に議論しておけばよいという事でしょう。
私ももっと考えなければ。反省。

内田
―――――――――――――――――――――――――――――

内田さん

大学の哲学、従来の哲学は、すでに死んでいます。
死にそうなのではありません。死んでいるのです。
従来の哲学の概念を根本的に変えない限り、再生は決してない、これがわたしの見方です。
いつでも、「事象をイメージする、概念を具象化する、意味を捉える」こと=「イメージ&意味の頭脳活動」により自分の頭で考えることを哲学すると定義づけ、それを日々の学習や生活の中で実践する、それがほんらいの最良の意味での哲学なのです。
そのような知のありようの根本的変革の営みのために内田さんの力が必要です。共に。

武田
―――――――――――――――――――――――――――――
武田先生


 そうです。大学の哲学が求めている哲学と、民が求めている哲学とは違うということでしょう。
 哲学研究が哲学と思う人たちと、生活の現場で良く生きる智恵を探求することが哲学の使命と思う人との相違です(社会で活きて働く知)。
田中王堂は、後者を常に考えていました。だから白樺周辺思想と位置づけるのです。
 
 「事象をイメージする、概念を具象化する、意味を捉える」こと=「イメージ&意味の頭脳活動」により自分の頭で考えることを、哲学すると定義づけ、それを日々の学習や生活の中で実践する」
 先生のこの哲学の定義は大変重要です。子供の教育の現場や生活の場から哲学的思考を頭と体の両方を使って、体験を持って身につけていくこと。この運動が広がっていけば、コペルニクス的転回が起きるかもしれません。そういえば、『君たちはどう生きるか』の主人公はコペル君でしたね。
 
 小生は微力ですが、白樺同人の皆さんと共に活動させて頂ければ幸いです。横浜在住
で我孫子から遠いのですが、かえって一定の距離感があった方が良い面もあります。
 こちらこそ先生から学ばせて下さい。

 それにしても、大学の学者や大学で哲学を研究した人と先生とはどうしてか衝突しますね。分かる気はしますが。そういう小生も大学で勉強していましたね。
  
内田

==============================


武田先生

しつこく確認させていただきます:ブログを読んで(近代民主主義社会における私と公共)

近代民主主義社会における公共的・社会的存在である、「私」の多重性を支える根拠は、認識・行為・評価などを行う意識をもつ人間存在の中心である我(主観)を鍛え耕す「主観性の知」であり、その自覚から出発することが必要と思えます。

田中王堂でいえば、「主観性の知」とは欲望を尊重し、整斉する「徹底個人主義」の立場
に立つことを意味していました。私の多重性・相互性とは、どこまでも私(主観)を活か
すことから始めなければ、つまるところ私が「滅私奉公」のようないびつな多重性・相互
性・公共性(社会性)を生み出しかねないことを確認したいと思います。

「徹底個人主義」を尊重する教育、「徹底的智見に基づく我」(石橋湛山)の確立を行う教育、「主観性の知」育てる教育は日本国の民主主義の進歩にとっても重要な課題と思われます。
私は、武田先生が「主観性の知」を30年主張し続けている意味はそこにもあると思って
います。

尚、「主観性の知」の重要さについては、
かつて竹内芳郎氏の本を読み、武田先生の主張により確信を得ました。
竹内氏より武田先生はよほど徹底して主張されたので私の心に響きました。そのことを私の王堂や湛山の研究に活かして問い続けて行きたいと思っています。
                                        内田
――――――――――――――――――――――――――――
内田さん

私のエロースの追求は、「個」(近代的自我=イデオロギー化した自我)に拘ると広がらず、他者への愛を必要とします。私の個に拘らず、私の純粋意識につく。そうすると、自我と他我は相反を含みつつ相同したり、相和に到ったりするのです。自我(「個」)もまた、私の純粋意識の下に自由を得るのです。
言いかえると、
自我(「個」)を純粋意識にまで高めて、そこからまた自我に戻ると、自我は自我であることをやめないで、同時に広がりゆく自由な世界を獲得する、そうして、ますます私のエロースは豊かになる。
ということです。

武田
――――――――――――――――――――――――――――
武田先生

ご教示ありがとうございました。

「個」近代的自我(デカルト的な我)にこだわらないで、「自我(「個」)を純粋意識にまで高めて、そこからまた自我に戻る」ということが 自由な世界を獲得するエロース豊かになる活き方である。

上記のような考え方は、分かるような気がします。ここで言う純粋意識に関してはもう少しご教示下さい。(どうしてもフッサールの純粋意識:本質直観のことを考えてしまいます)
それにしてもやはり、先生の考え方と活き方は東洋的ですね。
関係ないかもしれませんが、正に華厳哲学に似ていますよ。(笑)
親鸞聖人で言えば、往相回向と還相回向の関係。(笑)

「徹底的智見に基づく我」(石橋湛山)の我だって、決して近代的自我ではないのです。
石橋は日蓮宗の僧侶でしたのでいわゆる二元論者ではなかったですから。
脱線しましたが、先生の思想はやはり経験的行動的なものですね。

内田
―――――――――――――――――――――――――――――
内田さん

「自我は自我であることをやめないで、同時に広がりゆく自由な世界を獲得する」
そのために必要なのが、「純粋意識」ですが、
それは、勝ち負けや正解に拘らない意識、考える頭を使っていること自体がよろこびである意識です。わたしの存在に対する全的な肯定がないと意識は純粋化しません。

言い換えると、自他への愛が成立しているときにだけ意識は固執・塊を持たずに、しなやかに自由に働くのですが、そういう意識の状態を、純粋意識と呼ぶのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
武田先生
 
 小生は残念ながらそのような意識に高まったことはないと思います?
 
 道元は「心身脱落」といっていました。そこでは自他の区別はなく
 すべてが平等な自由自在の境地になり、執着を離れると言います。
 先生の純粋意識とも共通点があると思いますが、違いもあります。
 
 勝ち負けや正解に拘らない意識、考える頭を使っていること自体がよろこび
 である意識。自他への愛が成立しているとき意識がしなやかに
 自由に働く。⇒純粋意識 やはり体験ですね。そのような意識は体験しないと
 分からないでしょう。そのような意識たつとエロースは豊かになる。
 
 「自我は自我であることをやめないで、同時に広がりゆく自由な世界を獲得する」

 前の自我と純粋意識を経験した自我では同じではないということですね。
 プラトンのイデアでもそうでしたね。生活世界(現実の世界)を活きている「我」
 はイデアを自覚する前と後では必然的に活き方が違ってくると思います。

 少し分かったような感じです。失礼しました。

内田
――――――――――――――――――――――――――――
内田さん

 ええ、確かに「体験」ですが、
多くの人は、生活の中で、「小我」がエロースをもたらさないことを知るのではないですか?
「閉じた自己」が何かのキッカケで消えたとき、純粋な意識が働き、とても気持ちがよいという感じです。

「我を忘れる」ということを誰でも経験しているでしょう。その時の意識が純粋意識です。

武田

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする