思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「国家のため」「国家を愛する」という言説は、成立しません。

2010-02-19 | 社会思想

国家のために、国家を愛する、
国家の意思、国家の欲望、
という言い方、考え方は、まったく意味不明としか言えません。

人間や自然を「愛する」、みなの「ために」、わたしたち国民の「意思」、誰かさんの「欲望」というのは、よく分かりますが、
「国家の」、という言い方・考え方は、内容がなく、意味が取れません。

かつて、埼玉を本拠地に活動していた「プロ教師の会」(河上亮一氏、諏訪哲二氏ら)という団体は、「学校は国家空間である」として、教師や生徒の自由はない、と主張していましたが、この「学校は国家がつくったものだから自由はない」という主張なども、論理を超越した形而上学的言辞でしかありません。言うまでもなく、学校をつくっているのも、国家をつくっているのも、自由で対等なわたしたち主権者の「一般意思」であり、それとは異なるところに国家意思があるとするのは、近代民主主義国家においては原理上許されないからです。

主権者の公共的意思=公論により、国家は、その内容も形もつくられるのであり、もしそうでないならば、主権者とは別に主権者を超越した「何者」かが存在していることになります。

わが国における天皇という存在も、憲法1条にある通り、「主権の存する日本国民の総意に基づく」ものであり、どのように天皇および皇室を遇するかは、主権者である国民の一般意思のみが決定するわけです。「主権在民」とはそういう意味であり、これは近代民主主義国家が成立するための原理中の原理です。

社会思想においては、よく意味が分かる言葉で語り合うことが大切です。共同主観を形成することが求められているのですから。「国家のため」・・・というような曖昧で明瞭な像を結ばない言葉には何の利益もありませんし、しばしば極めて有害です。もし、「国家の」と言うのならば、誰もが納得する説明をしなければなりませんが、それは不可能でしょう。

武田康弘

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