ルソーのいう「一般意思」とは、
十分な情報が公平・分明に与えられ、特定の考えに誘導されることが全くないという条件の下で、互いの差異を何よりも尊重するという立場により、完全に自由で対等な討論が活発に行われることでつくられる公共的な意思のこと、と定義できます。
一般意思は、その社会の構成員の全員参加による集会で「共通の利益」のみを目がけてつくられるのですが、それは、各人が「個別の利益」を追求することから生じるもので、多様な個別の利益が十分に主張される中で次第に明確になる「共通の利益」です。
それは、「法」として表現されます。
「一般意思」とは上記の意味なのですが、どうも学者を含めて誤読する人が多く、「一般意思」を全体主義に結びつけるような荒唐無稽の解釈さえ出回っています。ほんとうに困ったものです。民主主義とは「自由・対等・多様・公正な議論」によってつくられる公共意思=「一般意思」に基づくという原理が曖昧になれば、民主主義は元から崩れてしまいます。
したがって、小学生からの順を踏んだ議論の実践と自分たちのことは自分たちで決めるという自治の実践がしっかり行われないと、民主主義はうまく作動しません。今はまったく等閑に付されていますが、「議論と自治の教育」は、民主制社会では何よりも大切なのです。
武田康弘