思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

テストと部活の【成績】、どちらも勝ち負けだけ。教育のないわが日本。

2010-02-16 | 教育

子どもの内的な発達・充実ではなく、勉強や運動の「成績」を問題にする、それは、まったく教育ではありません。「成績」を基準に人間を見る・育てる、という思想は、必ず人間性を歪めます。度を越せば破滅です。

「成績」という他者との比較を生きる基準にすれば、勉強は、文字通り、嫌なことを強いられるものでしかなくなります。「関心を持つ・学ぶ・分かる」という知的世界の面白み、広がりは消え、ただ他人との競争・順位争いでしかなくなりますが、それでは、「内的」な意味・価値の世界はつくれず、ただ「外的」な勝ち負けだけがある、ということにしかなりません。どこまでいっても生の充実はなく、死ぬまで意味の分からない競争を強いられるだけです。

「私」の内的な基準・内的な動機・内的なよろこびがなく、外なる価値に一生を支配される人生に、幸せがくることはあり得ません。

これは、運動部の部活動でも全く同じです。スポーツ・運動するよろこび・身体を使う面白さを味わうところに主眼がなく、「成績」に主眼が置かれれば、スポーツ・運動は、本来の意味である楽しみを失い、辛いことを我慢する自虐趣味にしかなりません。内的よろこびにつくのではなく、「成績」を目的にすれば、スポーツ・運動は人生を貧しくするアイテムにしかならないのです。

日本の教育が貧しいのは、「私」のよろこびを広げるという教育の基本がなく、「成績」=外的基準で個人を序列づける思想しか持たないからです。「豊かさ、魅力、よろこび」が基準にならなければ、何もかもが大元から崩れ去り、人間の教育は成り立たないのです。これは原理です。主観性の豊かさを広げ・鍛える、という人間の生の基本を知らない教育は、人間を幸福にしません。「私」の意味充実がなければ、世界のすべては色あせ、価値を失ってしまいます。

武田康弘
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コメント

エリートとは知を愛さない人間 ( ざらすとろ )
2010-02-18 20:15:39

この国における学校というところは、ものを考えない家畜人ヤプーの製造が目的です。そこに知を愛する喜びなんか持つ人間が出ようものなら、
体制にとって非常に迷惑なだけで、そういう能力のある人間はごく一部のエリートだけいればいいというところなのでしょう。

しかし明治時代からそれを熱心にやってきたお陰で、しまいにはエリートさえもいなくなってしまいました。それこそものを考えようとする人間、知を愛する人間が社会に関わる余地が一切なくなった。

人は誰しも成功した体験に固着したがってしまうものですが、
そこに固着すると痛い目に遭う場合があります。
成功したのだから確かに嬉しいことではあります。

しかしそこに落とし穴があります。
いつも通用すると状況も観ずに思い込んでしまいます。

そういう時,その成功した体験が通用しない状況に立たされても
状況などの変化に気付かずに失敗してしまう。
これは非常に危険なことです。

ところが非常に困ったことに、そういう失敗をしてこなかった連中がこの国を牛耳っていて、更に言えば仮に失敗をしても他人に責任転嫁することが構造的に許されてしまう連中がこの国をめちゃくちゃにしてしまった。
この点に日本国の運営上の大きな問題があると思います。

本当に大事で有益なことは失敗した体験です。
失敗から学ぶことのほうが遥かに有益で、勉強になります。
その体験は必ず次への教訓となって活かされる。

よく実力主義とかいうけれど、みんな言葉の定義を間違えていて、
あれは成果主義と言い換えた方がいいんです。

なぜならば実力というのはよくわからないものです。
ある役割を与えられてはじめて実力というのは発揮できる種類のものです。表面的なノルマで計測できない部分があります。

そしてそのような表面的なノルマ主義で切り捨てられたものが,実力の養成に於いて非常に重要であったりする場合があるのですが、これはなかなか分からない。
で、ノルマ主義を押し進めた結果、誰も幸福にはならなかったのだし、
社会全体の生産性も能率も、結果としてボロボロになってしまいました。


コメント (1)
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