思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ネットウヨクとのやりとり、不幸な若者を生んでいるのは、かつてのサヨク学者

2010-02-22 | 社会思想

いわゆるネットウヨクと言われる人が、下のブログを見て、コメントしてきましたが(mixi内)、そのやりとりの最後の部分と、ヒロミさんのコメントを載せます。

なお、ネットウヨクの人は、本は読まないで、ウヨク学者や評論家がサヨク攻撃のために用意した紋切り型の言葉を繰り返しますが、サヨク運動で挫折し転向したウヨク学者の罪はほんとうに重いと思います。昔は、過激な暴力による運動でかき回し、今は自由と人権・民主主義を否定する極めて危険な思想(国体思想)で若者を洗脳する、なんと愚かで罪深いことか!

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やり取りは、ここまでで10回以上に及びましたが、
その最後の部分と、ヒロミさんのコメント、及び、わたしの応答です。


アイウ
2010年02月21日 20:55

石橋湛山のルソー解釈はタケセンさんとはちょっと違っていませんか?

「代議政治の論理」の中で石橋湛山は書いていますよ。
(引用開始)
何となれば、なるほど或る社会或る国家に生るることは偶然であるが、この社会を改造することは人間の力にある。また帰化あるいは死によってこれから逃れることも自由である。しからば則ち私が石橋と呼ぶ家族の一員であり、日本と呼ぶ国の一員であることは偶然であったかも知れぬが、それが現在の如き石橋家、現在の如き日本国の一員であることは決して偶然ではない。自由意志の選択である。されば我々は仮令形式的に申し合わせはしないまでも、現在の社会に満足してその制約の下に生活して居る限り、それを社会契約だと言うに、大した差し支えはない。私はこの意味において、社会生活の論理はルソーのいわゆる社会契約なりと見るものである。
(引用終了)

石橋湛山は日本国民であることを自由意思として選び取り、その制約下で生きることを選択することを「社会契約」だととらえたのです。

「国家というものがなんだかわからん」、などと言っているような脱税犯・鳩山由紀夫のような人には石橋湛山みたいな考え方はできないと思いますね。

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タケセン
2010年02月21日 23:07

「なるほど或る社会或る国家に生るることは偶然であるが、この社会を改造することは人間の力にある。」

これが社会契約の根本の意味ですよ。主権者が国をつくるのです。右の国体主義、左の共産主義のような全体主義ではなく、デモクラシーの本義はそこにあるのです。
わたしが、あなたが、国家をつくるのです。個人の自由と責任において。この原理を弁えない人は、全体主義者でしかありません。

「私が石橋と呼ぶ家族の一員であり、日本と呼ぶ国の一員であることは偶然であったかも知れぬが、それが現在の如き石橋家、現在の如き日本国の一員であることは決して偶然ではない。自由意志の選択である。」

これは、石橋湛山が哲学者であると感じさせる名文句ですね。 「状況・内・存在」である人間は、しかし、その状況を主体的に引き受けようと決意することではじめて状況を変えうる存在になる、それが人間が他の生物と截然と異なる「実存」であることの証なのです。

なお、もう一度言いますが、ルソーの社会契約について語るのは、それを真面目に読むことが最低限の条件です。光文社文庫を購入して、時間をかけてしっかり自分の力で読むのです。

その後で、真面目な質問や意見(=ウヨク・国体イデオロギーを流布する為の言説ではなく)があれば、できる範囲でお応えしましょう。
今回は、これでお終いです。

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ヒロミ
2010年02月22日 05:04

タケセンへ
ひとことコメントさせてください

以前のことですが
友だちと彼女の家庭のこと社会のことなどランチしながら話をしたことが数回ありました。彼女はとても強い問題意識を持っていて なんとかしたいと思っているなら私も同じだから 意義のある話ができたらと思いよく話をしました 私もいくつも意見を求められれば私の思うことを話しましたし解決へと向かうような有意義な会話がしたいと思っていましたが 彼女は決まって最後には 「世間てそんなものだし 結局我慢するしかないししかたがないのよ」と前・未来へではなく後ろに戻って自分のなかで話を終わらすので それも毎回なので今まで話したことはどこいったんだと私は異常に疲労したのものでした。「世間」が言ってるから、「世間」がそうなってるからしかたないってなんでしょう
それをつくっているのは私たちひとりひとりじゃないかと 何度かは話したのですが。私の話し方の下手もあったのでしょうと思いますが。
それこそ
このブログの「国家」だっておなじではないでしょうか
私たちひとりひとりが生きていてこそ
国というものが成り立ち 私たちが働いたお金(税金)と私たちの意思で 政治にたずさわる人たちを選び、雇い 運営しているのですよねだからなおさら私たちひとりひとりがしっかりとものごとをみる目をもたないとだめだと思います。ちょっとそれますが 強烈な洗脳をうけ、戦争で国(天皇)のためにと尊い命をおとしていった多くの若者や人々を思う時 激しい怒りと涙があふれます。強い洗脳はされつつも 彼らの中にも何故自分がこんなことで死ななければならないのだろうかという(口にするだけでさえ死を意味することだったのでしょうか)思いが心の奥にあったのかもしれない。二度と繰り返してはならないことだと強く強く思います。

☆身近な人たちとどんどん話題にしていく時にブログをとても役だたせていただいています☆。

では(^-^)
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タケセン
2010年02月22日 12:09

「私たちひとりひとりが生きていてこそ国というものが成り立ち 私たちが働いたお金(税金)と私たちの意思で 政治にたずさわる人たちを選び、雇い 運営しているのですよねだからなおさら私たちひとりひとりがしっかりとものごとをみる目をもたないとだめだと思います。」(ヒロミ)

ヒロミさん、その通りですね。

一人ひとりの想い・意思の前に、予め、「日本国家とは何であるか」が決められ、それに従うように教育・強制するという「戦前のイデオロギー」(虐げられた少年時代をもつ山県有朋らは、自由民権運動を根絶やしにするために、天皇神格化による官僚支配の日本をつくったが、それは、江戸時代の国学者・本居宣長の権威を利用してねつ造した【国体】という想念を、義務教育を通して全国民に植えつけることによって成し遂げられた。現在のウヨクは、未だにその想念に囚われている人たちで、哀れ)は、
1945年、ポツダム宣言を受諾して降服した後、63年前の1947年5月3日に施行された近代民主主義思想に基づく「主権在民」の新憲法により、根本的に改められたわけですが、
いまだに、市民精神(「私」は社会・国家をつくっている一人の人間だという意識)が弱く、民主的倫理に基づき、民主的人間として生きるという自覚と実践にひどく不足しているわけです。

ヒロミさんの言うとおり、良識をもった公共人として生きることをみなが実践することで、自由で豊かで魅力的な人間と国を生みだしていきたいですね。人間味あふれる社会を共につくりましょう!!国民みなが、市民という自覚をもって生きるのが「新しい公共」(=みなの参加でつくる公共=民主主義)なのですから。
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コメント

人として生きる(石橋湛山・研究者)

石橋湛山は、
「人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として人間として生きるためである。 決して国民として生きるためでも何でもない。(略)人の形づくり、人の工夫する一切が、人を人として生かしむることを勇逸の目的とせるものである。」
と言っています。

ブログにコメントされた方の意見は、またもや石橋湛山の根本思想を無視しているのです。石橋の思想は、国家や国民を固定的に実体化して拝み倒すような思想とは正反対なのです。それは、田中王堂から受け継いだ徹底個人主義を原理とした人間観に立脚しており、常に一個人の「生活」を尊ぶところの「人間中心主義」の思想なのです。その意味で石橋湛山は正にラディカル(徹底的・根源的)な民主主義者であり自由主義者でした。

石橋湛山の思想の根本には、今言ったような人間観や国家観に基づく思想があり、その上で武田先生の言うところの「状況・内・存在」として国家とか国民とかを引き受けようと言っているのです。

石橋湛山が、第一に日本国民であることを自由意志として選び取り、その制約下で生きることを選択することを「社会契約」と捉えた、とするコメントされた方の意見は、正に逆立ちした議論で困ったものです。石橋は言っています。人として生きる「この目的に反するならば、我々はそれを変改せねばならぬからである。」


以下は、国家と宗教及び文芸 明治45年5月号『東洋時論』から引用

人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として人間として生きるためである。 決して国民として生きるためでも何でもない。宗教や文芸、あに独り人を人として生かしむるものであろう。 人の形づくり、人の工夫する一切が、人を人として生かしむることを勇逸の目的とせるものである。

かくいわば人あるいはいうであろう。しからばいかにして宗教と国家、文芸と国家との相衝突矛盾することが あるかと。

しかしその衝突するのはその本来の目的、その本来の立場が異なっておるがためでなくて、 その1つの目的を達するため、1つの立場をとるために、一時矛盾撞着するのである。 言い換えれば、時代に相応せざる制度、思想を時代に相応するものに改造せんとする努力である。

されば、「国民として生きる前に人として生きねばならぬ」 と言う言葉は、私の意味を以てすれば、「国民として生きる前」ばかりでなく、 「宗教の中に生きる前」「文芸の中に生きる前」「哲学の中に生きる前」 に人は人として生きねばならぬのである。 否、生きざるを得ないのである。 何となれば、国家も宗教も哲学も、文芸も、その他一切人間の活動も、 皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものであるから、 もしこれらの或るものが、この目的に反するならば、我々はそれを変改せねばならぬからである。




コメント (1)
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