思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

生活世界における「私」こそ究極の原理。 知と教育の貧困

2011-08-30 | 恋知(哲学)

現代では、「どのように生きるのがよいか」「どのような社会で生活したいか」を考えることまで職業=仕事=商売になっているようです。大学人が外国の思想書を翻訳し、または読解することで、そういう問いに答えを与えてくれると思う人さえいます。

元来、上記の根源的な問いは、学問書に答えを書けるものではないのですが、思想や哲学関係の研究者の中には、何かしら特権的な力をもっていると勘違いしている人もいます。これは、知の目的と価値は「主観性の知」にあり「客観知」はそのための手段に過ぎないことの認識が弱いために起こる悲喜劇です。日本の受験知教育が「正解」は決まっているという想念を深く植え付けるために、客観神話に囚われ、哲学や社会思想にまで「正解」(客観的真理)があると思い込むのです。

基本の確認ですが、大学人の仕事は、さまざまな思想書・哲学書の「価値」を分明にし(もちろんそれは一つの解釈=見方ですが)、数々の情報を整理して提示し、人々が自分で考え・判断するための手段を提供することです。それがほんらいの仕事であり、大学人が「正解」!?を出したり、自らの信念の方向に人々を誘導することではありません。

どうもいまだに啓蒙時代のような旧態依然とした観念に囚われて、「ああ勘違い」の人がいるのは、ほんとうに困りもの。どのような考え方(思想)がよいかは、各自が、生活(日常生活・仕事・趣味・活動)の中から立ち上げ、生み出すものであり、「一般的な答え」などどこにもありません。

結語ですが、「生活世界」(日常生活・仕事・趣味・活動)こそが人間の生の基準であり、ほんらいの哲学には、特権的な場(例えば大学や研究機関)は存在しないのです。生活世界における「私」の意識=私がどのように見、聞き、感じるか、私がどのように想うか、私がどのように考えるか、それこそが「絶対の基準」(正しいというのではなく、正しさが意味をもつ座標軸=生きることの始発点)であり、哲学(自立した精神)には、それ以外の基準はありません。これは究極の原理です。


武田康弘

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生きることの始発点=私 (古林 治) 2011-08-30 19:48:07

以下の結語について、まったくだ、と言うほかありません。

多分、普通の人が聞けば誰しも賛同する話だと思うのです。
が、学者さんたちとの議論を通じて感じたのは、どうも3番目についてはえらく勘違いしている人が多い、ということです。

1.「生活世界」(日常生活・仕事・趣味・活動)こそが人間の生の基準
2.ほんらいの哲学には、特権的な場(例えば大学や研究機関)は存在しない
3.生活世界における「私」の意識=私がどのように見、聞き、感じるか、私がど のように想うか、私がどのように考えるか、それこそが「絶対の基準」(正しいというのではなく、正しさが意味をもつ座標軸=生きることの始発点)
であり、哲学(自立した精神)には、それ以外の基準はありません。

『他者性』という外国由来の概念(流行)を濫用して【私】を軽んじる場面が多々ありましたし、【私】と言った刹那、私=エゴととらえる短絡性もそこにはありました。
どうも彼らにとっては、ここが肝(弱点)になっているように感じます。
キム・テチャン氏との対話が、この【私】をテーマとするところでストップしてしまったのは大変残念に思います。
機会があれば、どなたか優れた哲学者とタケセンさんによる、【私】をテーマとする対話篇を望みたいものです。

参考
金泰昌(キム・テチャン)‐武田康弘の往復書簡 出版へ
    『ともに公共哲学する』 東京大学出版会刊
http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori123.htm


優れた外来文化から受けたトラウマ状態から抜け出るのに50年はかかる、という様な話を夏目漱石がしていたと記憶してますが、50年どころではないですね。
そろそろ自分の頭で考えられる状態にしたいものです。

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全身で感じ、想い、考える (タケセン)
2011-08-31 11:46:34

古林さん
よいコメント、どうもありがとう。感射です。
哲学を「ふつう」の言葉で語る。権威に頼らず、書物に頼らず、日々の自分の経験につき、自分の頭で考え、語り合う営み、どんどん広げたいですね。
「私」が、よーく見、よーく聴き、よーく感じ、よーく味わう、それがなければ、全ては砂上の楼閣。
私が感じ、私が想い、私が考えるのですから。
ただの言語ゲーム観念遊戯ではなく、全身で考え生きなければ、エロース豊かな生はやってきませんものね。
(そう、プラトンの学園『アカデメイア』の主祭神は、エロースでした。)


コメント (2)
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