思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

様式が意識を支配する国。  8.15と3.11 失敗から学べ。

2011-08-14 | 恋知(哲学)

わたしたち日本人の生き方は、今もなおやたらと儀式的。
なぜ?なんのため?は問わず、形式・様式優先で事が運びます。
勉強も正解が決まっていて、そこに早く至る訓練だけがあります。
元に戻して考えること、既成の価値意識を洗い直す努力がないのです。

主権在民の民主制を敷き、人間の対等性を謳いながら、生まれながらにして敬語で遇するような存在を置いて怪しみません。1年間で200以上の宗教儀式をする一家族が日本人統合の象徴で、年間170~180億円という税金でこれを賄っていますが、その代わり彼らの人権を制限しています。
明治政府がつくった「近代天皇制」という曖昧なシステムは、まさに「様式による意識の支配」を象徴するものです。

なぜ?なんのため?を問わない=意味論の追求がないために、受験競争(パターン知と丸暗記)の勝者を頭がいいと思い込みます。思考錯誤、創意工夫、臨機応変、当意即妙の才が育たず、自らの具体的経験から立ち上げる思索力・対話力に乏しい人間が増えます。権威と既成秩序に従うのみでは、人間の尊厳は生まれません。「私」からはじまる生は歩めません。それは、深いニヒリズムをうみます。

日本にこだわる者も、海外に憧れる者も、その精神の底はまったく同じです。
形式や様式的思考(紋切型の言語中心主義)だけがあり、「私」からはじまる生がないのです。開かれた私=大我としての自分を中心に生きることができません。中身・内容が希薄で、様式が意識を支配しているからです。豊かな「意味」の追求がないからです。なぜ?なんのため?を無視する只の「事実学」が跋扈(ばっこ)し、その勝者を崇める社会は、貧しいのです。

「私」から始まる生のみが、豊かなエロース溢れる国、楽しく伸びやかな文化の国をつくります。儀式、様式の支配から、中身、内容の豊かな世界へと跳躍したいもの。

8月15日と3月11日 二つの大失敗を根源的に反省し、そこから学ばないと、未来を拓くことは不可能です。


武田康弘
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