政治権力により国民の思想に一定の方向づけを行う。
それは、日本的ナショナリズム=明治政府がつくった近代天皇制に基づく愛国主義によるもの。
天皇を敬わない人には社会的な不利益を与える。無視からはじまるイジメを合法化することで。
皇室は特別な存在。したがって皇族には特別な敬語を用いるのが正しい日本人であり、批判する者は「非国民」とみなす。そういうムードはすでにテレビの力により現実のものとなっている。
政治家が、自らの権力の正当性を公論により形成された「一般意思」ではなく、天皇・皇室への距離の近さによって証明しようとする。これは、「天皇教」という新宗教(=靖国思想)の作成により明治の保守政治家がとった基本戦略ですが、今またまったく同じことが行われようとしています。
一人ひとりの人間存在の対等性と自由に基づく「人権と民主主義の思想」を嫌がり、思想及び良心の自由(憲法19条)はお題目として棚上げし、実際は、曖昧な存在ゆえにどうとでも使える天皇制というシステムを利用して日本人全体を縛る。日本人としてのあるべき姿を作成してそれに従う国民を育成する。そのためには教育改革が必要だが、骨子としての『教育基本法』の改定は安倍首相(当時)の執念によりすでに実現済み。
いよいよ、石原氏親子、橋下氏、安倍氏らにより、明治の保守政治への回帰が実現しそうです。明治との違いは、官僚主導から政治家主導へと切り替えようとしている点と、アメリカの保護国としての日本主義である点―具体的にはアメリカ軍と自衛隊の一体化です。実現すれば、戦前とは異なり特高なしの「真綿で首を絞めるような天皇親政の国家主義」が誕生します。
昨日のブログに書きましたように、
「内的充実・内的豊かさ・内的輝きとは無縁な生き方は、どんなに積み上げても、積み上げれば積み上げるほど、虚しさが増し、心は空疎になり、病気となり、自他を抑圧するおぞましい精神となります。旧態の権力者として振る舞う人は、権力の私物化によって外的価値に呪縛されている自らの精神の空虚さを埋めようとするのですが、巻き込まれる人々はその「害毒」(ときにそれは猛毒となる)の被害者となります。」
の現実化ですが、わたしは、市民としての自覚をもった人々を不幸にする彼らの「企て」に対しては、断固としてノーを言います。独裁的傾向をもつ権力者の「狂気」を許さず、不退転で闘う覚悟です。
武田康弘