思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「一神教」的思考を超えないと、ほんとうの対等も自由も幸福も平和もない。

2012-09-11 | 恋知(哲学)

以下は、マイミクのざらすとろさんのTwitterでのやりとりです。

ふーれん

多くの日本人(群れて生活する「草食動物」・少数は食べられるが他は助かる)が黙っているのは、黙って耐えていれば運が良ければ勝手に社会が変わって生き残れる(運が悪ければその際に犠牲になる)ことが多いことを経験上知っているからなのかもしれませんね。2012年9月10日 14:22

タケセン

一人ひとりが「天上天下唯我独尊」であることの自覚が必要ですが、それが「哲学する」前提で、釈迦とソクラテスの出自が同じ(インドーヨーロッパ語族)ことから結果しているのでしょう。三大宗教をうんだセム語族との違いですが、われわれは多神教ですので、釈迦とソクラテスの伝統に立ちたいものです。 2012年9月10日 14:26

ざらすとろ

> ふーれんさん 何だか草食動物というより、家畜化しちゃっている気がしてならないです。餌をあてがわれ、抵抗することを忘れてしまっている気がします。2012年9月10日 19:23

ざらすとろ

> タケセンさん ただ個人の主体性という考えそのものが、セム系一神教、特にキリスト教の風土で形成されたもので、原始仏教ではアートマンに関する議論に対し判断停止し、煩悩や苦しみの原因を取り除く暮らしをするという考えなので、それは主体性の思想とは違うように思います。2012年9月10日 19:37

ざらすとろ

> タケセンさん また、ソクラテスにおいては、その弟子であるプラトンによってこう述べたと紹介されていますが、そのプラトンはイデアという考え方を提示した人な訳で、むしろ、最終的には究極的なイデアを志向する方向性を持っていて、釈迦とはかなり違う立場だと思います。2012年9月10日 19:41

タケセン

わたしは、一神教的「超越」に基づかない主体性の獲得を考えています。それが、キリスト以前の釈迦の原思想の中にあり、それとソクラテスの問答的思考法との共通性を取り出すことで、現代に求められる超越項なしの内在的普遍性(普遍妥当性を導く思考法)への道を拓こうと考えています。2012年9月11日 00:15

タケセン

それが、21世紀が求める主体性獲得の方法ではないかと。 また「イデア論」は、みなに誤解されているように思えます。プラトンが「物語」として説明したために、超越的と受け取られてしまいますが、ほんとうは「普遍了解性」の獲得(問答的対話による絶対ではない妥当性という意味での普遍性)だというのがわたしの読み。2012年9月11日 00:18

ふーれん

> タケセンさん 『一神教的「超越」に基づかない主体性の獲得』素晴らしいお考えだと思います。2012年9月11日 01:31

タケセン

ありがとうございます。今までの人類の思考と生き方を変えるー文明転換が必要で、それには、日々の自らの生き方がキーとなると思います。「私」の自我ではなく存在の声を聴く営みが基盤。外・外面=「超越」ではなく、「私」の内・内発に立脚する「普遍了解性」の獲得=豊かなエロースの営みです。一神教的な思考法(超越項を置く)を超える生。2012年9月11日 10:49

 

  • ざらすとろ

    ざらすとろ
    > タケセンさん 対話による弁証法によって、相互間の妥当性に到達しようということですね?2012年9月11日 12:17
     
  • タケセン

    タケセン
    うん、そうです。一神教的な思考法からどう脱するか、脱することができるか、は、人類の死活問題で、善美に憧れ「普遍了解性」を求める営みと、「絶対的真理」を求める営みの根本的な違いを明晰化することで、内からの内発的な生を交歓する思想と生き方をつくる。そこからしなやかで強い主体性が生じる、という考えです。2012年9月11日 15:23
コメント
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