思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

魚釣島(尖閣)問題ーー歴史を踏まえての結語です。

2012-09-28 | 社会批評

以下は、マイミクの方からの恐ろしく長いコメントとへのお応えとして、書いたものです。

簡明に記します。

琉球(沖縄)と中国は500年間の交流をもちます。1372年に琉球王朝を明が承認してから定期的に交流をもってきました。魚釣島(尖閣諸島)は福建省から琉球への途次に航海の目印として使われていたことが中国の古文書に記録されています(一番古いものは1534年5月8日)。

1609年に薩摩が琉球を侵略してからは明と薩摩の「両属」となります。薩摩の兵隊は(明は琉球に軍隊を置きませんでした)明の役人が来ると平服に着替えて隠れるようにいていたと記録されています。

薩摩は、琉球が中国と江戸の橋渡しをしていた(琉球の「大航海時代」と呼ばれる)為に交易物(物や情報)を得るのが目的で来ていたのです。琉球は、中国と日本の仲立ちをしていましたが、この盛んな交易は1879年(明治12年)に明治政府による【琉球処分】(琉球王朝廃止・王族の全員逮捕・琉球を認めず沖縄と呼称)まで続きました。

しかし、明治政府(山県有朋)は、1885年の閣議で、魚釣島(尖閣諸島)を日本の領有とすることを否定しています。

この年の9月に沖縄県令(今の県知事)の西村捨三は、内務卿の山県有朋宛ての報告書で、「魚釣島は大東島とは地勢が違うし、中国の記録が多くあり、冊封船(中国船)が通っていて島に詳しく、それぞれに中国名もついている。日本領という標識を立てるのは待った方がよい(要旨)」と記しています。これを受けて山県有朋は井上馨外務卿に相談しますが、井上は「調べるのはよいが、右島嶼(魚釣島)に、国標を立てるのはよくない、清国の疑惑を招く。また島を調査していることを官報並びに新聞に掲載してはいけない(要旨)」と応えました。それを聞いて山県は、1885年の閣議で尖閣諸島の日本領有を否定したのです。

ところがその10年後、日清戦争の末期に皇軍の勝利が確実になった時点(1895年・明治28年1月14日)で突然、伊藤博文は「標杭建設の義」を決定し領有に踏み切りました。「久米島魚釣島と称する無人島へ向け近来漁業等を試むる者有。之為取締を要するに、付ては同島の議は沖縄県所轄と認めるのを以て、・・・・明治二十八年一月十四日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文」。

現実問題に飛びますが、
魚釣島(尖閣諸島)問題は、中国が提案しているように【棚上げ】にするのがわが国にとってもベストです。これは間違いありません。

武田康弘

 

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