思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

根深い「草の根の天皇制」が【民主的倫理】(人間存在の対等性)をつくらせない。

2012-09-13 | 恋知(哲学)

昨日の『愉しい哲学の会』では、天皇制の最大の害毒は、【草の根の天皇制】ともいうべきものにあることが浮き彫りになりました。

人を黙らせる・自分が上位にたつ手法として、天皇・皇族との距離に近さを暗示・明示するというのは、意識せずに日本人の心性となっています。『園遊会』に招待されて舞い上がる人々の姿は、まさにその象徴です。

人間存在の対等性と唯一無二の存在である「私」の価値を自覚しないで、上位の存在者がいるという錯覚の中で生きる。生まれながらにして敬語で遇す・遇される皇族という存在を置いて怪しまないー幼児にも敬語を使う!!??という愚かな行為。長年かけて人類が獲得した【人間存在の対等性】と【思想・良心・表現の自由】を反故とする言動がまかり通るわが日本の現実はほんとうに嘆かわしい限りです。これでは「民主的倫理」は現実化しません。

権力欲の塊である「領土問題の仕掛け人」たちは、ナショナリズムを高揚させ、明治天皇賛歌の『君が代』を強要することで教育思想を日本主義に統制することを目がけています。ふつうに考えれば誰にでも分かることですが、口をあけているかどうか・声を出しているかどうかを教育委員会の役人がチェックするという狂気は、国歌が『君が代』だからこそ生じるのです。もし国歌が『桜』であったらどうでしょうか。チェックする意味がありません。明治の保守政治家(=自由民権運動の弾圧者たち)が絶対とした【天皇教】を象徴する歌(11月3日の天皇誕生日に明治天皇に捧げられた歌)だからこそ、いきりたって強制し、歌わない教師を迫害する(仕事を奪うことで経済的に殺し、社会的には犯罪者としての烙印を押す)のです。

その本質において北朝鮮とどこが違うのでしょうか?

思想・良心・表現の自由は教師(公務員)にはない。議会で多数で決めれば、【基本的人権】でさえ奪える!!??もう言語に絶する狂気ですが、狂気の政治家・権力者を支持する人が大勢いるのにはただ呆れるばかりです。どうしてこうも人間は狂いやすいのでしょうか。

一人ひとりの中に住む上下意識(草の根の天皇制)を断つのは難しい作業かもしれませんが、それを成さないと前に進めないことは確かです。いま、べートーベンの交響曲5番と第6番をかけていますが、この美しく豊かな名演を指揮しているのはRUDOLF KEMPE(ルドルフ・ケンぺ)です。彼は、「王(女王)にもタクシードライバーにも全く同じ態度で接した人」として有名です。そうでなければ偉大な共和主義者のベートーベンを指揮するにふさわしくありませんね。


武田康弘

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