(32年前の懐かしいノートより)
「どんなに経験的内容が共同主観的なものであっても、それがまさに展開される地平そのものとしての非反省的コギトーは、絶対に通訳不可能だ、という存在論的事実」
これは、わたしの師であった竹内芳郎の言葉ですが(「言語論」の授業中)、まさにこの人間存在の存在論的事実を明晰に意識しなければ、あらゆる人間の営みは虚妄となり、根源的不幸を招来します。
竹内芳郎氏(63才) 1987年 竹内氏自宅で 武田康弘(35才)
★今年5月、わたしは67才になる。この時の竹内先生の年齢をとっくに追い越している(笑)
武田康弘
FBのコメントで、哲学用語ではなく、という指摘がありましたので、書きます。
すみません。32年前の思い出のノートが出てきましたので、そのまま出しました。
よく話し合い、合意が得られても、一人ひとりの人間の心=ありのままの思いは、決して一つにはならない、ということです。
当たり前の話のようですが、それを忘れると、ひどいことになります。他者(親子でも恋人や夫婦でも)への侵害が起きます。
それから、竹内氏の授業「言語論」に出ていた綿貫君(彼の誘いでわたしも出ることになったのです)からも、このままではマズイとの指摘があり、
「非反省的コギトー」についての説明を、とのことでしたので、コメント欄に書きました。以下です。
「反省的意識」とは、ふつう私たちが使っている「意識」のことですが、 「非反省的意識」とは、或ることをしたり考えたりしている意識を支えている無自覚的な意識をさします。ただし、無自覚とはいえ、うすうすは意識していますので「前意識」という言う方がよいと思います。 (サルトルの言葉=概念)
コギトーとは、我=自我のことですので、 「非反省的コギトー」とは、はっきりと意識化されていない自分の意識のことです。
綿貫君、もっと分かりやすく言えるかな?タケセンは、そこそこお歳なのでよろしく。
FBの方でも哲学用語では困るから、わかりやすく説明してほしい、と言われて、超かみくだいて書きましたが、「思い出」だけ書いてもダメですね!(笑)。ありがとう~~~。