思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

文部科学省の皆さんへ。一体、あなたたちは何をしたいのですか?

2005-04-08 | 教育

あなたたちは、何故あえて他国の人々の神経を逆なでするようなことをするのですか?

それでどういう「得」と「徳」がえられるのですか?

歴史の事実をごまかし、隠すことが、「正常化だ!」とは、正気の人の言うことでしょうか?

これほど馬鹿げたことをして、「国益」になると本気で信じているとするならば、救いがたい「愚か者」としか言いようがありませんね。

イマジネーションが貧困なために「他者感覚」がもてない。もし自分が韓国人や中国人だとしたら、侵略・占領され、多くの同国人を殺された国の民であったとしたら、日本軍=皇軍の行った恐ろしい行為には絶句!するしかないでしょう。

幼いころから受動的な受験勉強をして東大法学部に入り、「事実学」を積み上げるだけの人生を歩むと、どれほど愚かになれるか?身をもって証明するのがあなたたちのraison d'etre=存在理由のようですね。

意味論としての本質学がないと、自分がダメになるだけでなく、他者に甚大な被害をあたえます。「自覚した罪は半ば許されている」と言います。まずは、自覚することが必要でしょう。

2005.4.8 武田康弘






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開き直る!東京都教育委員会。 抑圧するのが教育ですか?

2005-04-07 | 教育

学校で、こどもと先生の共同作業でつくるべき卒業式を、教育委員会が上から「適正化」という名で強制指導している実態が、3月28日、NHKで放映されましたが(クリック)なんと都教育委員会は、自分たちの意図が伝わっていないー「極めて遺憾」という申し入れ書をNHK橋本会長に提出したとのことです。

「NHKは自分たちの報道機関だ」と豪語している自民党としては、この「事実」の報道がよほど面白くないらしく、都議会自民党と歩調を合わせての抗議となりました。愚か者たちは「反省」とは無縁です。

ファシズム=権力による個人の自由の剥奪を「適正化」と称して押し通す『公共悪』。石原都知事以下の愚か者たちは、日本社会の閉塞状態を国家主義=ナショナリズムへの誘導でごまかそうとする危険な保守政治家たちの「お先棒担ぎ」の役を担っています。

中国、韓国を植民地支配したこと、おぞましい国家悪を重ねてきた事実の隠蔽―露骨と婉曲を織り交ぜての教科書検定による教科書会社の自主規制に先ごろ成功!するや、文部大臣と自民党の国会議員は、「正常化してきてよかった」と言っていました。

近代史の最も大きな問題を、ごまかし、隠し、教えないようにすることで「国を愛する人間」をつくろうと考える保守権力者たちは、最も恥ずべき人間たちです。嘘と偽りの上によきものがつくれるはずはありません。深部まで腐っていき、国を亡ぼすだけです。真に自国を愛する人間は、このような卑劣な思想と行為には「ノー」と言わなければなりません。

「靖国神社」や「君が代」や「十五年戦争」について基本的な歴史さえ知らないなら、議論自体が成立しません。もし自分がその当時、中国人あるいは韓国人だとしたら、という視点を持てる子どもたち・日本人の育成こそがよき愛国心=『公共善』を生むのです。広い視野をもち大きく考えることのできる人間、自分の中に「他者感覚」をもてる人間の育成こそが急務です。現代日本の止め処もない右傾化は、自殺行為でしかありません。昨日の私のブログ(この下)も見てください。

ところで,NHKはどう対処するのでしょうね? 裸の個人―ひとりの市民の立場にたち、報道の自由、権力からの独立の姿勢を示せるか? 注目して見守ろうと思います。

2005.4,7 武田康弘





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水の国=日本、よき伝統を破壊したのは誰ですか?

2005-04-06 | 社会思想

明治政府のつくった近代天皇制=生きている人間を「神」(現人神)とする恐ろしい思想は、自国にも他国にも甚大な損害を与えてきました。人的にも自然・風土にも。欧米を真似た「乾いた」強権的な思想による政治は、伝統の日本とは大きく異なるものです。

いうまでもなく日本は水の国です。多雨、深い森林、海に囲まれた島国です。しっとりと「濡れた」文化が日本のよさです。例えば「明晰」といっても、それは乾いた厳しさではなく、透明度の高い水を連想させます。空気も多く水気を含んでいます。「もののあはれ」を感じる叙情性、優しさ、よい意味での曖昧さ、そこに日本のよさがあるのではないでしょうか。

本来の日本の伝統とは、明治政府がつくった施設=靖国「神社」の思想とは、根本的に異なるものです。戦争のために命を捨てるという恐ろしい思想、現人神を崇拝するという不自然かつ危険な思想とは無縁なものです。

天皇という存在は、元来「神話的」で曖昧なものなのです。政治の場面に登場させるのはルール違反です。法律=憲法に明記されるものではなく、古き神話の世界に生きる「旧家」として静かで控えめな存在でなければならないのです。表舞台で活躍する欧州の王家とは違います。

それを現実の世界に引き出してしまった明治政府の所業を根本的に反省しなければ何事も始まりません。「近代天皇制」の出現によってよき日本の伝統は破壊されたのです。この事実を日本人皆が深く心に刻まなければ、未来は展望できません。

繰り返します。日本は水の国です。「風土としての日本」を基点に文化・伝統を捉えなければいけないと思います。

(私事ですが、私が幼いころから好きで毎年必ず行くのは、奥多摩の渓谷と岩場の海―大学生の時からはずっと伊豆七島の式根島―です。日本の自然を破壊してきたのは、公共事業という名の自民党+官僚と癒着した風土破壊事業です。私の愛してきた美しい奥多摩と式根島も、全く無意味な工事で破壊され続けてきました。幼いころ何よりも好きだった逗子海岸左手の岩場は、ずっと以前にコンクリートで固められてしまいました。)

日本の伝統のよさを壊したのは「近代天皇制」の明治政府なのです。自民党はその明治政府が人為的に作った「日本」に伝統を見るという愚かな思想を恥ずかしげもなく提示していますが、対する民主党も問題の本質が分からず、右往左往するだけというありさまです。

毎年自殺者が3万数千人も出る戦争状態のような現代日本―『人間を幸福にしないシステム』の始まりは、明治政府にあります。それを引き継いできた自民+官僚保守政治の伝統を変えなければ未来はない、これだけははっきりしています。

「乾いた」強権ではなく、深い「優しさ」による革命を準備しなければと思います。個人の想いを掬い上げる哲学が必要です。日本のよき伝統は、明治の天皇教のような一神教にはなく、八百万の神のギリシャ世界に近いのです。一神教の欧米ではなく、哲学のギリシャと親近性を持つのです。

宗教から哲学へ!集団から個人へ!常識に反して21世紀にふさわしよき生ーよき社会は、「水の国ー日本」の優しい個人に立脚した新しい実存哲学から生まれるのではないでしょうか?

2005.4.5(4.6改定) 武田康弘





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☆とても大事な問題提起だと思います。-Lucien氏の実存と社会実感

2005-04-03 | 日記

「メタフィジカルな気分」のLucienさんの問題提起には大きな普遍性があると思います。まず、彼の4月2日のブログ2本を見て下さい。(クリック

現代社会と教育の大きく深い問題だと思います。


わたしのコメント(字数制限400字ぎりぎり)を以下に貼り付けます。

[タケセン] [2005/04/03 12:03] [ MyDoblog ]

とても大事な問題提起だと思います。

幼いころから段々と自分たちのことは自分たちで決めるという練習ー「自治」を身体化する営みを積み上げることが、「私」と「公共」との有機的な結合の実感を生み出す条件ですが、これとは異なる考えと方法で日本の「教育」(とりわけ学校教育)は行われてきました。 

形式ータテマエー事実学が支配し、内容ー本音ー意味としての動的な人間育成の理念がありません。

私は小学校の時、「政治クラブ」をつくり所属し、中学校では教師と論議し、高校では授業をストップしての全校生徒の話し合いによる学校改革をおこないましたが、こうした具体的経験が社会と自分との結びつきの実感を生み出します。

「世間」ではなく、「社会」を実感できる人間の育成が、「エリート主義から市民精神へ」の転換の条件ですが、日本の教育はその思想が希薄で、方法論も持ちません。何とかしなけば大変です。(武田)



皆さんはどうお考えですか?

2005.4.3 (武田康弘)



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嬉・生誕120年「クレンペラー再考」-レコード芸術4月号特集!! (増補4月2日)

2005-04-01 | 趣味

20世紀最大の指揮者=音楽家・オットー・クレンペラー

若きクレンペラーは、先進的な民主主義=ワイマールのドイツを象徴する刺激的・革新的な音楽活動を展開して、ナチ党を中心とするドイツ民族主義の保守派から憎悪の的とされていました。アメリカに亡命し、大戦後は再びヨーロッパに戻り精力的に音楽活動をするも、ひどい困難が次々と彼を襲います。クレンペラーは、それを人間業とも思えぬような不屈の闘志で克服し、前例のない高みへと上ります。88歳の死の直前まで強靭な精神力を発揮してレコーディングに挑み、見事な「音魂」を残しました。

私が最も愛する指揮者クリックとして以前、ブログにも発表しましたが、今月―4月号の「レコード芸術」では、何ともうれしいことに、「クレンペラーが生み出す音楽は時を越え、否、時とともにさらに輝きを増しているようにおもわれる」として、特集を組んでいます。生誕120年「クレンペラー再考」。ようやく時代が彼に追いついてきた、ということかな?

編集部冒頭の文章にこうあります。『 「音がごつごつして硬く、聴きづらく、最初は嫌いな指揮者だった」今回の特集にあたり、多くの筆者からこんな言葉がもれた。それがいつのまにか「正直に言えば、彼が演奏するなら、なんでもいい」に変わる。それはなぜか?にせまる 』 こんな企画、「レコード芸術」でもはじめてではないでしょうか? ♪実にうれしいです♪(エープリ・フールではありませんよ。)

対談「われらクレンペラー党」の喜多尾道冬さんの話も正鵠を射るもの。
ぜひ、ぜひ、ぜひ、お読み下さい。税込み1250円です。買って永久保存!をお勧めします。

2005.4.1 武田康弘


増補―4月2日

 一言します。
クレンペラーのベートーベンで一番よいのは、第五「運命」ではなく。第三「英雄」なのです。第五のような堅固な構築性をもつ曲よりも第三や第九のような流動的で複雑な要素をもつ曲のほうが、彼には適しているのです。我らクレンペラー党のお二人と編集部の方、「第三」を落としたのはひどい失態ですぞ。それからベートーベンの序曲もどうしてもはずせませんです。

クレンペラーの芸術の本質についてひとこと付け加えましょう。

クレンペラーにとっては、すべてが今なのだと思います。
現代曲は現代曲、古典は古典なのではなく、クレンペラーが楽譜を読んでいるその時が、すべての始まり=今なのです。モーツアルトもベートーベンも過去ではなく、今を生きている音楽として読まれるのです。彼のつくる音楽が時代を超えて存在するのはそのためです。リアルな今が、そのまま霊感とロマンに満ちるのです。戦略や戦術はありません。作為を必要としないのです。この今の現実が直ちに霊感に満ちたロマンとなるならば、一切の作為は不要だからです。その意味でもクレンペラーとカラヤンは、正反対の音楽家でした。もちろん私はカラヤンが好きではありません。深いロマンを秘めた硬骨漢クレンペラーは、骨の髄まで芸術家だったのです。







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