★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

第三大臼歯

2019-04-23 23:22:24 | 漫画など


third molars 所謂「親知らず」であるが、私の場合、上下全てが内側に向かって寝転んで生えていて、歯医者でレントゲンを撮ると、いつも医者が「おっ」とか「あっ」とかおっしゃる。わたくしは、乳歯の時に一本欠如していた上に、24才ぐらいに時に、上の前歯の奥に臼歯が発見されたりと、もはや新人類ではないかと思われるのであるが、昨年その親知らずに問題がでて抜くことになり、今日二本目が抜かれていった。

人間、体の一部が欠損すると、なんだか悲しくなるものである。わたくしなぞ、髪の毛を切った後などにも悲哀を感じるくらいだ。

帰宅してから、ふとんのなかで「あれよ星屑」というマンガを読んで、麻酔が覚めるのを待っていた。

山田氏のマンガは、西原理恵子の『できるかなV3』で目撃したことがあったがちゃんと読むのは初めてである。これはすばらしい漫画じゃないかい?

私の歯の世界はちょっとおかしいから、また親知らずも生えてくるのではなかろうか。

ふにゃふにゃした動き

2019-03-31 23:18:03 | 漫画など


授業の予習で『桃太郎 海の神兵』を観たのだが、やはり何回観ても動きがちょっと気持ち悪いアニメーションである。ディズニーの「ファンタジア」などの影響があるのだろうけれども、動き方がよりふにゃふにゃしている。これが技術の問題だけではなかったのは、添え物にしか見えない桃太郎の動きはたいして気持ち悪くなく、やや不気味なのは貌だけであるところからも分かる。いや、不気味に前髪が動いたりするか……。主人公は、猿をはじめとする動物たちである。飛行場をつくった南海の島の動物たちは「へんな奴がきた、我々の顔に似ている」とか、確か言っていて、それが桃太郎なのであるが、このひとが帝国軍人であるとして、はじめ田舎に帰ってノンびりしている猿はどこの國の人であろう。むろん、日本なのである。とすると、大日本帝国は少数の桃太郎と動物たちで構成されているような國なのであろう。植民地の人たちが動物なのは、コロニアルな意味で分かるが、結局、日本のなかも動物で溢れかえっているのである。我々は比喩的でなく動物なのだ。

で、敵国の鬼は、西洋人ということになっていて、むろん人間である。

――結局、わたくしは、このアニメーションのふなにゃふにゃした動きそのものが、我々が我々人間自身を嫌ったあげくたどり着いたロマンなのではなかったか……と疑う。確かに大塚英志が言うように、戦前モダニズムのモンタージュなどの機械主義的な帰結であることも理解できるが、わたくしはよりそれをロマン主義的なものとして把握したほうがいいと思うのである。日本のなかのばかな桃太郎も西洋人もいやだ、好きなのは、動物と風景とひこうき……ゆらゆらと動くものたち……。考えてみると、宮崎駿の『風立ちぬ』なんか、当時国策によって生産されてもいた飛行機オタクの想像力を、主人公のまともな倫理観の粉飾をまぶして「まとも」にしてしまっている。実際は、もっと妙な感じなのではないか?このアニメーションの動きみたいに。

はじめののどかな田舎のシーンで、蒲公英の綿毛の浮遊がひたすら描かれているが、それがいつの間にか、落下傘部隊をえがく音声と重なってゆく。悲しいやら情けないやら……。

忽ち開く 百千の
真白き薔薇の 花模様

――空の神兵(昭17)

ここにないのは、人間の内面だ。空を飛んでも海に潜っても人を殺しても感情は死んでいる。

 蒼白の高峰秀子嬢に単刀直入、きく。
「ずいぶん苦しそうですね」
「いいえ!」
 断乎として否定する。
「キャプテンもエアガールも、親切。本当に愉快な空の旅です!」
 航空会社と読売新聞と航空旅行そのものにあくまでエチケットをつくす志。凛々しくも涙ぐましい天晴れ、けなげな振舞い。
 代って純情娘の日本代表、乙羽信子嬢に、これ又、単刀直入。これは甚しく正直だ。
「ええ、とても、苦しいのです」


――坂口安吾「新春・日本の空を飛ぶ」


とりあえず、戦後のわれわれにとって、感情をとりもどすことが必要だったのである。今回の天皇の退位や元号のバカ騒ぎで我々はまた感情を殺しつつある。ばかばかしい限りである。

猫ピッチャーとイチロー

2019-03-23 23:25:17 | 漫画など


そにしけんじの『猫ピッチャー』はまだ続いているのではないかとおもう。猫がニャイアンツ(どうみてもジャイアンツ)のピッチャーをやっている話である。

むろん、猫がかわいいというだけのまんがなので、野球まんがではないのではないかと思われるが、――それにしては長く続いている。読んでみると、案外無理矢理作った力こぶのようなものはむしろ「猫ラーメン」の方にある。こちらは猫が人間に近づかなくてはならなかったからである。「猫ピッチャー」はそうではない。猫のままで巨人のエースなのだ。

思うに、最近のプロ野球というのは、案外『猫ピッチャー』みたいな世界なのではないだろうか。それは、球場にマスコットがいるからではない。

落合博満氏はFAとか給料の面では、アメリカ風の個人事業主的な考え方を導入した人であったが、野球観は古風なひとのような感じがする。案外、浪花節的なところもあって、むしろ商業化するプロ野球の中で、ヤクザな素人的野球人として抵抗していた面がある。彼のファッションをみればそうだと思うし、だいたい、彼は「なんとか人生」みたいな演歌のレコードを出すような人なのである。(ほかの人も出してたが……)長嶋王の時代をよく知らないのであれなのだが、落合選手は、決して星野的熱血とも無縁ではない。ただ、極端に弱気で合理的だけだったように思われる。「ほら、おれこれ仕事だから」という彼の口癖は、自分に言い聞かせていた面が強いと思う。マスコミに対しても、あまりコントロールをしたがっているようにはみえなかった(結果的にマスコミは翻弄されていたが――)。ただ、彼が監督の後期に、ガンダムオタクであることを標榜しているのをみたとき、事態はこんがらがってきたぞと思った。

イチローはどうだったのであろうか。合理的な思考は落合と似ているが、彼のインタビューは結構コミュニカティブで、単につっけんどんではない。その意味で、野村監督や松井などと似ていてより「職業人」なのだと思った。のみならず、イチローは、ダウンタウンなどと一緒に番組のなかで遊んでしまう器用さを持ち合わせている。今回の引退会見で、「監督は絶対無理。僕は人望ないので」などと言っていたが、案外本当かもしれないのである。人望というのは、コミュニケーション能力とは全然別物である。

しかし、そのイチローも「最近の野球は頭を使わない方に行ってしまって、気持ち悪い」などと言っていた。マスコミはここを取り上げたがらないが、イチローが一番言いたかったことではなかろうか。外国人になってみて分かったことがあるといった発言は、たぶんそういう認識の一部をなしている。しかし、イチローも妻と犬に感謝する癒やし発言?までしてサービスしていた。犬でよかった。猫だったら……(いや、犬の方が妙な比喩を感じるからまずいのか……)

王も落合もイチローも職人的であって、その突き詰めた思考のありようからなにか人生訓みたいなことを求められたりもする。スポーツ選手の中には、政治家になったりする御仁もいるくらいだ。彼らをもちあげる心性がまともとはいえないにしても、そういう現象をあながち全否定はできない。われわれだいたい皆そんな素人状態で政治に関与することになるだろうからだ。したがって、ある個人がまともなことを言うためには、職分に縛られている状態でも、世間や社会がかれら(我々)を、きちんと教育できないといけないわけである。それは全く上手くいっていない。イチローが草野球がしたい、と言っていたのは、そういう問題に彼がたどり着いたことを示しているのかもしれない。

われわれは思ったよりも、自分の職業以外のことがわからなくなっている。オルテガが言うように、それが「大衆」としての大きな特徴だといえばそれまでだが、イチローからもそれを感じる。その意味では、イチローはまさに我々の極端な自画像であるような気がする。

結論:イチローとシロー、実に似ている。

リライトの時代

2019-03-18 23:26:19 | 漫画など


突然思い出したのだが、真船一雄という漫画家がいたことを……。ドクターK、か何かを描いていた。ブラックジャックがケンシロウになったような感じの風貌であったが……。この頃のマンガの倫理観があたえた影響は、最近顧みられないが、案外重要かもしれない。

この30年ぐらい、作品のある意味でのリライトというものがかなり進行していて、われわれがいろいろなことを忘れたのはそのせいもある。

そういえば、真船氏はウルトラマンの漫画化もしていたはずで、たしか以前少し読んだことがあるが、これも最初に円谷がつくっていた特撮とはまったく質の違うものであった。

戦前が戦後によって解釈されたことはいろいろ言われているが、戦後を平成が解釈したこともちゃんとこれから言わなくては……。それをやったうえでないと、戦前のなかから可能性を脱構築的に引き出すなど、ただの恣意的なものになりかねない。

お薬だしときますね

2019-03-13 23:49:05 | 漫画など


大学生の頃、売っていた気がするマンガだったので、ついコンビニで買ってしまったのが、林壮太氏の『黄金色の風』である。日本陸軍の中国大陸での行動について、一人の軍人青年が中国人の子どもに撃ち殺される(復讐される)までを描いた作品である。戦争を描く作品は多くあり、多くあること自体が考察の対象になりうるが、――とりあえず、何が描かれていようとも、賢しらな感じがする作品は信用できない。この作品は注意深く視野を狭くしワンエピソードに限った。それ自体、作者が戦争責任をどのように考えているかがよくあらわれている。我々は、逆説的だが、視野を自分の感情に限ることに拠ってしか、責任問題を論じることは出来ない。坂口安吾が、戦争がおわったときに、これから人間の本性を観た奴がきちんした小説を書き出す、みたいなことを言っていた――わけだが、わたくしはそれは楽観的だったような気がする。われわれはいろいろ経験すると自分の感情がむしろ分からなくなるのではないか?

中野重治が『近代文学』の連中と行った座談会をみると、やはり『近代文学』の若手たちが自らの視野が開けた感じを、中野重治にぶつけていた。中野は全然こたえない。これはこれで若手たちの危惧は当たっていた側面もあるのだが、――自分の感情がよく分からなくなってしまっているのは、戦時中逡巡させられた若者たちの方であった。中野はたぶん、戦時中、現実をある意味軽蔑しきって乗り切ってしまっている。そらまあ、誠実ではないのかもしれないが、誠実であればいいというものではないのも自明の理だ。

この頃は、ヒロポンを打っていたひとも多かった。これはよく言われていることだが、戦前から、特攻とか徹夜のために必要なひとたちがいたので戦後も流行ってしまったのである。最近、わたくしも病院などでいろいろな薬を貰ってくるが、確かに薬というのはよくきく。ある種の神秘である。――こんなことを感じているようでは、我々はほとんど精神的にはドラッグ中毒者だ。そういえば、また薬関係でアーチストが捕まっていたが、――アーチストは作品のために野垂れ死にしてもかまわん連中がほとんどのはずであり、教育者面しているわたくしとしてはあまり興味はないと言わざるをえない――が、精神を持たせようとする努力に一般人とは桁が違う神経が必要なことはわたくしでも分かる。それに――作品の生成はまあ神秘的であり、これまた薬の作用も同じである。この同質性がどこかでわれわれをひっかける。――いうまでもなく、その作品とは優れていないクズみたいなものもふくむからやっかいだ。

むしろ、作品がうまくいかないときにこそ生じる空白を神秘としてみなすデカデンツへの誘惑が……、これは冗談ではなく、ものをつくろうとしたやつにはほとんど経験済みの出来事なのではあるまいか。だから、ぼーっとしたデカデンツはだめなんだ。

まあ、べつに何でもかまわんよ、人は人、自分は自分である。

わたくしはしかし別に、ワイルドみたく

うわさになるより悪いのは、うわさされないことだけである


とまでは思わない。自信がないからであろう。

ドカベン輪廻

2019-02-01 16:14:09 | 漫画など


ドカベンがついに終わったらしいというのは聞いていたが、ファクトチェックとして最終巻を読んでみた。確かにおわっていたが、最後は岩城の回想シーンでその回想部分(ドカベンと岩城の最初の出会いの場面)がおそらく第一巻のコピペである。正確には、これは終わりではなく、「第一巻に続く」なので、永遠に輪廻するドカベン回想物語が成立したのであった。岩城の自意識過剰な部分は物語の荒唐無稽さではなく、語り手岩城の自意識そのものの反映となった。

ドカベンのクライマックスは、たぶん最初のシリーズの31巻ぐらい(土佐丸戦)で、高3時代を描く『大甲子園』のときが技術的に充実しているような気がする。とにかく書き込みが多く、一人の打席に一巻ぐらいかけたりする(違ったか)。打席中に打者の人生が回想されたりするのがドカベンで、その話はほとんど貧困や障碍に関わる浪花節的なものである。時代はかわり、主人公たちがプロ野球に入ってしまうと、それらはなくなり(というか読んでないから分からん……)、画も白くなってテレビの画面のようになっていった。もう時代は、ドラゴンボールや珍遊記でないと荒唐無稽が許されなかったのである。

とりあえず、最後は山田太郎のサヨナラホームランで終わるに決まっているドカベンであるが、やはり最終話もそうであった。しかしかれの打撃音は「グワァキィーン」となっており、これは岩城の打球音に近い。岩城のアドバイスでホームランを打ったのだから当然なのだが、結局、水島新司は、山田と岩城の話という原点に回帰することを選んだみたいである。里中や殿馬はサブキャラでしたからね……。

それと関係あるのかもしれないが、――長らく読んでいなかったので、よく分からないのだが、山田の家とおぼしき部屋でテレビをみている女人たちは一体誰であろう。たぶん、山田たち四天王たちの妻たちなのである。さっちゃん(山田の妹)と夏子はん(岩城家のお手伝いさんに生き写しの岩城の好きな例の人)みたいな顔の人が何人か増殖していたが、だれが誰と結婚したのであろう……。関係者の係累が複雑になると、漫画に於いては、「モブ」になるのが普通で(シランけど)、結局彼らはそうなったのではなかろうか。というより、男一匹主義から家族万歳主義になっただけかもしれない。あしたのジョーの主人公は恋人を振り切って一人で廃人に、ドカベンの主人公たちはそれぞれ結婚して一族郎党で生きてゆく。どちらも置いてきぼりをくっているのは、一般市民の観客であるが……。

外山恒一の『良いテロリストのための教科書』をこの前読んでいて思ったのだが、ドカベンもドラゴンボールもポリコレの影響を受けて長く続かざるを得なかったところがあるかもしれない。浪花節も西遊記も差別的な話である。これを市民的な話にするには、長い時間をかけて主人公たちをキャラクターから解放しなければならない。昔から気になっていたのだが、90年代以降の「キャラクター主義」はどちらかというと、キャラクターをせいぜい性格の違いに還元することではなかったであろうか。

吉田戦車と杉浦正一郎

2019-01-26 23:38:46 | 漫画など


わたくしは大学に入るまでにまんがをほとんど読んでいないので、さぞ時代遅れになっているかと思っていたのであるが、どうもそういうわけではなく、ほとんど読んでもいなかった吉田戦車のまんがにふれてみると、ほとんど自分がネームに関わっているのではないかと錯覚するほどであり、なにかおかしい。以前に三浦哲郎や村上春樹についても同様のことを指摘したことがあるが、同時代性というのは読んでいなくても存在するのではなかろうかと思っていた。

しかし考えてみると、そういう空気みたいなものを表現できるのが一流の作者なのかもしれず、――だからこそ、自分だってこのくらいは書けるぜと思って思春期の読者たちが創作の迷路に彷徨し始めるのであろう。

また、吉田戦車などは、漫才とか映画にもかなり影響を与えたようなので、それを受容したわたくしが原点を見出しただけなのかもしれない。

吉田戦車はだいたい一〇歳ぐらい上の世代で一九六〇年代の前半に生まれている。

がっ、わたくしが想像上、一番共感を覚えているのが、一九〇〇年代から一九一〇年代の生まれの人たちである。わたくしは一九二〇年代生まれの作者になるとその若造感に堪えられない。

で、杉浦正一郎の「草」(『コギト』8)は、彼の「開港紀 4」で、なんだかよくわからんが、前作の続きのようでもありそうでないようでもある。従姉妹だと思っていた少女が、実の妹だとわかり、なんだかほんとに彼女に恋してしまっている主人公であるが、なかなか自分との身体的な共通点が見いだせないので、「せめて自分の不安を頼らねば」と思う。その不安とは、例の「三人吉三」の話を思い出したことによる不安である。おとせと十三は実は兄妹で恋仲である。結局、和尚吉三によって首をはねられる。

不安さえもフィクションによって呼び起こさねばならない、そのことは、案外重要なことである。

役人の主人公性

2019-01-12 22:52:26 | 漫画など
黒澤映画の「生きる」なんかは、小役人を描いた作品であるが、わたくしはまだまだ役人世界というのは、芸術の世界で突っ込んで考えられていないフロンティアではないかと思う。「浮雲」の文三以来、というか、それ以前から小役人というとまずは馬鹿にすべき人種であるという決めつけがあったためであろう。確かに頭の悪い幇間はいるであろう。しかし、それはどの職種にでもいることだし。

わたくしは、ヘッセとかトーマス・マンが好きだったが、なんだか無理をしている気が当時からしていて、安部公房などにも熱中してみたが、どうも何かまだ違う気がして、高校の頃、ゴーゴリの「鼻」を読んでこれだなと思ったのを憶えている。

つらつら考えて見るに、どうもこれには真実らしからぬ点が多々ある。鼻が勝手に逃げ出して、五等官の姿で各所に現われるというような、まるで超自然的な奇怪事はしばらく措くとして――コワリョーフともあろう人間に、どうして新聞に鼻の広告など出せるものではないくらいのことがわからなかったのだろう? こう申したからとて、別に、広告料がお安くなさそうだったからというような意味ではない。そんなものは高が知れているし、第一わたしは、それほどがりがり亡者でもない。が、どうもそれは穏かでない、まずい、いけない! それにまた、焼いたパンの中から鼻が飛び出したなどというのも訝しいし、当のイワン・ヤーコウレヴィッチはいったいどうしたのだろう?……いや、わたしにはどうもわからない、さっぱり訳がわからない! が、何より奇怪で、何より不思議なのは、世の作者たちがこんなあられもない題材をよくも取りあげるということである。正直なところ、これはまったく不可解なことで、いわばちょうど……いや、どうしても、さっぱりわからない。第一こんなことを幾ら書いても、国家の利益には少しもならず、第二に……いや、第二にも矢張り利益にはならない。まったく何が何だか、さっぱりわたしにはわからない……。
 だが、まあ、それはそうとして、それもこれも、いや場合によってはそれ以上のことも、もちろん、許すことができるとして……実際、不合理というものはどこにもあり勝ちなことだから――だがそれにしても、よくよく考えて見ると、この事件全体には、実際、何かしらあるにはある。誰が何と言おうとも、こうした出来事は世の中にあり得るのだ――稀にではあるが、あることはあり得るのである。


――平井肇訳


スープから鼻が出てくるという劈頭部、鼻を捨てようとして警官に捕まる男、自分より身分の高い五等官になって思い人の家に行ったらしい鼻に対する感情、鼻を捜索しようと新聞広告を出そうするやりとり、突然鼻がある朝戻るところ、――すべての場面が完璧な出来だが、最後のナンセンス?な駄弁がすばらしい。最近読み直してみたら、ゴーゴリが小役人を単に馬鹿にしているのではなく、人間としてきちんと描いていることに気がついた。この作品でオペラを書いたショスタコービチが、「鼻をなくした人を馬鹿にするのは理解できない。こんな気の毒な人がいるだろうか」と言っていたのであるが、皮肉ではなかったのである。



一方で気になるのは、この二十年は役人がヒーローである作品も沢山あるということである。「ガンダム」あたりまでは、ヒーローがだいたい非正規の愚連隊だったが、「パトレイバー」は警視庁、「攻殻機動隊」もそうである。確かにアウトローみたいな人物たちが主人公なのだが、やはり公務員試験を受けた人たちなのだ。よくみてみると、ちゃんと決めぜりふで「真面目に生きろ」とか説教するパターンが多い。アトムの説教「きみはまちがってるよ」とは違う。間違っていようと正しかろうと、「真面目に生きろ」が公務員だ。上は最近読んだもので面白かったが、「死役所」という漫画である。この役場は、死んだあと、地獄や天国やらその他やらに行く手続きをとるところで、職員は、死刑になった人である。これは面白い設定である。役人というのは、ある種国家によって殺された人であるので、譬喩としてかなり正確なのであった。しかし、やっぱり役回りとしては閻魔様なのであり、第一巻の最後なんか、受付係は、五人の児童をひき殺し死刑になった青年の自慢話を遮り、「屑が」と一喝する。

要するに、われわれは銭形平次や遠山の金さんみたいなものがいまだに好きなのであって、人を裁きたくてしょうがないのである。自由を求めて自分を律するアウトローはいつも少数である。大概は、自由をもとめて自分以外の自由を縛りたいのが大多数である。公務員は、そんなリヴァイアサンの世界で秩序を維持する砦の役目を果たしていたはずであり、不可視のアウトローだったはずであるが、最近は……。どうなのであろう……。

退屈

2018-12-13 23:37:50 | 漫画など


一つ原稿をあげたので、横槍メンゴの『クズの本懐1』を読んだが、「死に至る病 それは 退屈」とあった。絵がすごく柔らかくずごいなと思ったら、この作者は女性だった。

この歳になって言うのも何だが、ある種の女性が「死に至る病 それは 退屈」とか思っている節はある。あることにしておこう。そんな目から見える世の中は空気すらも恐ろしいのであろう。

黄昏流星群

2018-12-05 23:19:47 | 漫画など


コンビニで『黄昏流星群』が売られていたので、ついその商売にひっかかり買ってしまったが、――しかも読んでしまいました。

テレビでドラマをやっているので売っていたのであろう。

黄昏流星という題が、はやくも悪意丸出しであるが、作者は島耕作かなんかの作者なので、しょうがない。島耕作は読んだことがないのだが。と思ってみたのだが第一巻だけ読んだことがある。なんだか調子こいた若い社員がいろいろな人とベッドインしまくるまんがだった記憶する。光がない源氏物語みたいなものであろう。これが、社長とか会長にもなるらしいので、誠にリアリズムである。

先日、NHKで山一証券破綻の特集をやっていた。破綻のまえ、社員たちは出勤するとトイレで呻いたりしてたそうである。島耕作にもそういう場面があるのであろうか。知らんけど。

学生のレポートをみていると、学生たちが自分たちを「一般人」として自己規定しているのをよくみる。そういえば、「黄昏流星群」のなかでいけ好かない大蔵官僚がでてきて、主人公が彼を殴ったりする。確かにわかりやすい場面である。一般人や大衆がそれ自体で「善」であるならば。

学生のレポートの変遷を観察すると、「蟹工船」なんかを、昔の教条主義者もびっくりの調子で批評する類を目撃したのが、十年ぐらいまえで、そのあたりからプロレタリアートでない者までプロレタリアートのような面をしてモノを言うような風景が見られるようになってきた。まあ、自覚が先にあったのではなく、言ってからそんな気分になったというのが正確である気もする。プロレタリア文学の発明した?「労働者」はいまも亡霊として強力である。

我々はかかる錯乱を起こしたまま黄昏れることはできない。必ず馬鹿にされて終わるというのが歴史の必然のような気がする。むろん、島耕作の作者みたいな行き方もありなのである。その表面的な推移が妙にリアルである。そんな描き方が重要だということを忘れると……。

語り手というイデオロギー

2018-11-24 23:53:46 | 漫画など


昨日、「戦中・戦後のくらし 香川展」と、「平和祈念展in高松」が、瓦町FLAGでやっていたので観てきた。そのとき、平和記念展示資料館のつくった二冊の漫画をもらったので読んでみた。満州からの引き揚げを描いた『遙かなる赤い夕陽』とシベリア抑留を描いた『シベリアからの手紙』である。

内容についても言いたいことはあるが、わたくしが気になったのは、その語り――、子どもや孫世代たちが、戦争体験者の手記や手紙を読むという形式である。これは現在の大人や子ども達を語り手(ならびに読者)にすることで読者をあらかじめ作中に引き入れてしまうという小説でもよくある詐術、いや手法と言うだけではない。読者の反応をあらかじめ書き込んでおくという装置である。すなわち本質的には誘導装置というよりイデオロギー装置である。「三丁目の夕日」や「永遠の0」、「小さいおうち」などで使われたのが記憶に新しい。

八十年代以降の語り論の隆盛は、文学研究の発展という意味合いだけでは説明できない。近代の相対化という、近代を内部から越えるということの断念でもあり、ある種の過去からの逃避である面が確実にあったような気がする。当時を想起してわたくしはそう思うのである。本当は、近代小説の語りは、語りの内部の相対化ではなく、もう少し具体的な感情の発露であって、どうも太宰の「人間失格」なんかが戦後に書かれたころから、手記を紹介する語り手が所謂「立ち位置」的な何かに変化しているのかもしれない。無論かなり前からそういうものはあったが、――戦後になってからは過去を振り返ることに個人以外の罪障感がつきまとうようになる。戦争のせいである。太宰は、「人間失格」や「パンドラの匣」を「道化の華」のスタイルで書くべきであったような気がするが、そうなるとそれは反省のリアリズムではあろうが、反省をしていないようにみえるので都合が悪いのだ。

わたくしは、戦争を記憶の伝承とかの、コミュニケーションの問題にしてしまうのには以前から反対である。

わたくし自身は、高松市の神社巡りをやって、文化的な愛着というよりなんとなく空間的な愛着が湧いてきてから、高松空襲の写真が身に染みるようになったから、問題は、コミュニケーションではなくリアリズムを整えることだと思わざるを得なかった。

ガッツさんと武蔵鐙

2018-10-31 23:29:23 | 漫画など


コンビニで見かけたのだが、――三浦建太郎の「ベルセルク」がまだ終わってないことに気がついた。いま40巻である。ちょっとのぞいてみたら、主人公のいかつい男(名前忘却)がどこにも見当たらない。よくみると、犬がいて「ガッツさん」と呼ばれている。ああ、主人公はガッツだった。というか、いつの間に犬に……。どうやら、トラウマでおかしくなってしまった女の子(名前忘却)の意識の中に、なんか魔法使いみたいな二人組が入り込んでて、その意識の中では、ガッツさんは犬らしいのだ。

大願成就と聞いて、犬は嬉しくてたまらんので、三度うなってくるくるとまわって死んでしもうた、やがて何処よりともなく八十八羽の鴉が集まって来て犬の腹ともいわず顔ともいわず喰いに喰う事は実にすさましい有様であったので、通りかかりの旅僧がそれを気の毒に思うて犬の屍を埋めてやった、それを見て地蔵様がいわれるには、八十八羽の鴉は八十八人の姨の怨霊である、それが復讐に来たのであるから勝手に喰わせて置けば過去の罪が消えて未来の障りがなくなるのであった、それを埋めてやったのは慈悲なようであってかえって慈悲でないのであるけれども、これも定業の尽きぬ故なら仕方がない、これじゃ次の世に人間に生れても、病気と貧乏とで一生困められるばかりで、到底ろくたまな人間になる事は出来まい、とおっしゃった、…………………というような、こんな犬があって、それが生れ変って僕になったのではあるまいか、その証拠には、足が全く立たんので、僅に犬のように這い廻って居るのである。

――正岡子規「犬」


私は、10年前ぐらいから犬に関わる小説を集めていて、まだ論文に書いてないが、少しずつ読んでいる。わたくしが正岡子規をわりと好きなのは、上の文章を読んだからだが、ガッツさんは無事に老後を迎えられるであろうか。そういえば、ガッツさんはあんまり馬に乗っていなかった気がするが、馬に乗りすぎた御仁といえば、

聞こゆれば恥づかし、聞こえねば苦し

とただ言えばいいものを「むさしあぶみ」と書いてしまったので京の女に怒られた昔男がいた。よくわからんが、そもそも上の発言が、Aならば~、Aじゃなければ~云々という――理屈っぽすぎるものであった。それにしてはいってみたくなる類いのもので、

武蔵鐙さすがにかけて頼むにはとはぬもつらしとふもうるさし

と女。男はすかさず

とへばいふとはねば恨む武蔵鐙かかるをりにや人は死ぬらむ

と言い返す。最後に「死ぬ」と言ってしまったのは論理のなせるわざだ。もはや心情ではない。対して、「ベルセルク」は心情に拘りすぎている気がする。とはいえ、あまりに細密画ばっかり描いていたら、知らぬ間に近代じゃない世界を覗いていることはありうるのかもしれない。作家達は、われわれの大多数より先んじて、次の暗黒時代を生きる覚悟を決めているようである。

人相

2018-08-27 23:38:02 | 漫画など


さくらももこ氏が亡くなったそうであるが、「ちびまる子ちゃん」はアニメーションで何回か見たことがある。以前、ちびまる子ちゃんの実写版ドラマをやってて、家族で見てたところ、わたくしを含めた子どもが面白そうにしていたところ、母が「あまり面白くない」と言ったのが印象に残っている。わたくしは、「そういえば、本当にこれを自分は面白いと思ったのだろうか」と、そのとき思った。確かに、ちびまる子ちゃんの世界よりはわたしは「面白くない世界」にすんでいた気がする。どうも、生活世界にメディアが入り込んでいる度合いが、ちびまる子の世界の方が進んでいて、まる子やその姉は、マンガやアイドルの世界で遊んでいた。

さくらももこの世代は、わたくしより少し上だが、――わたくしの生活実感は、「サザエさん」の方に近い。と、思ってもみたが、そうでもない。むしろ「サザエさん」は非常に都会の世界でおしゃれな人間関係を形作っていて、これとも違うようだ。しかし、かといって、「アパッチ野球軍」とかの世界とも違うし、「おしん」とも違った(一部はちょっと似てた)し、無論、「はやり唄」とか「田舎教師」の世界とも違う。

私たちは、自分の生活の原風景など、実際は殆ど記憶していない。「サザエさん」とか「ちびまる子ちゃん」が必要なのは、そのせいである。実際は異なっているのであるが、記憶を少し思い出すための媒体なのである。同世代の西原理恵子のマンガは、これらに比べると、ほんとうのことをデフォルメしてしまっているので、我々は作品世界に縛られてしまい、自分の記憶など思い出さない。

「宇治拾遺物語」の「伴大納言の話」(第四話)は、応天門事件で流罪にあった伴大納言の若いときの話である。西寺と東寺を股にかけて仁王立ちする夢を見た彼が妻にそれを言うと、「あなたの股が裂かれるのね」と言われたのでびっくりしたが、出勤してみると、上司の郡司がいつもと違って彼を歓待してくれて、

なんぢ、やむごとなき高相の夢見てけり。それに、よしなき人に語りてけり。かならず大位には至るとも、こと出で来て、罪をかぶらんぞ

と言うのであった。で、本当にそうなってしまったよ、と語り手は話を終えている。今も昔も、人相でなにかを判断したがる人は多いし、わたくしも屡々やっているかもしれない。案外、「あの顔はあかん」とか言い合うことで社会が成り立っている面は看過しがたい。しかし、本人にとっての自分の顔というのはよく分からないので、――「その夢はいいね」と言われたことの効果の方が大きい。最後は罪人になろうとも、あまり気にはならないのではあるまいか。

確か、酒井浩介氏の以前の論文で、小林秀雄的批評の起源としての座談会についての論文があった。座談会がトラブル処理の権力闘争のドラマみたいなものになっているという論旨だったと思う。こういう説話でも、様々な声の権力闘争によってなり立っているところはあり、「伴大納言の話」の場合、伴氏は結局人相が悪かったんじゃねえか、という判断をしている話者が勝っている気がするわけである。『日本三代実録』でもなにやら容姿について批判されている彼のことであって、まったくかわいそうなことである。

ちびまる子ちゃんはその点、人相が良い……のだろう……

破廉恥とか第六夜とか

2018-08-18 23:04:18 | 漫画など


「ハレンチ学園」というのも今回初めて読んでみた。途中で有名な「スカートめくり」についての回があって、これが例の騒動のあれか――と思った次第だ。確か永井豪は、このとき自身が受けた社会的制裁について、エロの問題より、教師の権威を失墜させたことの方が問題だったのではないか、とどこかで述べていたように思う。確かに、作品の雰囲気は、当時の学園紛争の影響もあって、学校を解放区として描くことを目的としているように思うが、当時の解放区で起こったあれこれについては、フェミニズムからも強烈に告発されている通りであり、そう問題は簡単ではない。考えてみると、「マジンガー」とか「デビルマン」でさえ、おんなじようなラディカルさを持ち、同じような問題もはらんでいるのだが、「ハレンチ学園」には別種のラディカルさがあったように思われる。

しかし、――ビューナスAのロケットはよくて、ハレンチ学園の表現がダメだということを説明するのは、ある種の「常識」にとっては容易だが、思想的には難しい問題だと思う。判断が難しいのではなく、歴史的経緯や表現としての説明が難しいのである。学校ではなぜ物事が生々しく生起するのか、といった問題に持って行きたい人もいるであろうが、わたくしはちょっと別の角度で考えようと思っている。

そういえば、先日、学生と漱石の「第六夜」について話をしたことが気になっていたのだが、今日、偶然、永井聖剛氏の論文に同じようなことが書かれていたのを発見した。永井氏の論文は整然としたものであった。

1979年地球は最大の危機を迎えていた(最初のせりふ)

2018-08-05 17:52:33 | 漫画など


「キン肉マン」というのは、わたくしの小学校の頃はやっていたらしいのであるが、一回も読んだことがなかった。この頃はたぶんプロレスブームだったので、たぶんそういう感じのモンと思っていた。この前、宮台★司が、格闘技は時間の無駄がないけど、野球とかサッカーとかはだらだらしてて嫌いと言っていたが、考える時間もなく殴り合うとか蹴り合うというのは、ただの弱い者いじめであるから、わたくしは格闘技は昔から嫌いである。痛そうだし。

紅白歌合戦を見なくなったのは、あの北朝鮮みたいな雰囲気がいやなのもあるが、いやだと思って裏番組を見ると、格闘技しかやってないというのもある。歌か格闘技しか選択肢がないという、どこの部族やねんというわけで、自然とテレビから遠ざかってしまった。

今回、「キン肉マン」というのをはじめて読んでみた。第一巻だけ。この時点では、「ウルトラマン」のパロディであるようだ。ここから、遠くない時期に、おそらくは読者の要請で、格闘技マンガになってしまったのであろう。ドラゴンボールと同じ流れだ。以前のわたくしなら、そこに読者の頽廃をみるところであるが、案外、七十年後半から八〇年代の下品なパロディの隆盛と格闘技の流行は、同じような現象なのかもしれないという気がする。

どちらも戦後文化や戦争のパロディなのである。プロレスなんかは、格闘技のパロディでもある訳である。「キン肉」は人体の一部だが、「ウルトラマン」の「ウルトラ」のような形容なのであって、実際の筋肉ではない。それが、宮谷一彦の筋肉との違いだ。ただ、その筋肉もパロディに成りかかっているのであるが――こういう風潮は面白いけれども、長い間は続かないと思う。

第一巻自体は面白かった。これは小学生にウケるわけである。とてもやさしい絵で暖かみがあるし……。