★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

無理やり森林メタファー

2025-02-14 23:41:30 | 文学


天に雲雀人間海に遊ぶ日ぞ

この一茶の人間は「人間界」みたいな意味を想定しないとうまく響かない。仏教では人間というのは人間界みたいな意味だとおもうが、堕落論の「人間は墜ちる」とか相田みつをの「人間だもの」みたいなものも、人間を「人間界」という意味として取れば別に不思議でもなんでもない。

人間界自体が森のように堕落と蘇生を多重に繰り返している。森で幼稚園をつくるとか、意義は分かるような気もするが、もはや自然にそこに行ったのではないので、どこかで別種の自然を求める(つまり安吾的に「堕落」する)はめにはなる。これはただの真実である。

よく言われていることだろうが、近代の出発を江戸後期の大衆文化の出現のなかに見れば、「小説神髄」なんかそれに対する抵抗であって、それに続く近代文学なんか反近代そのものな訳だ。そしていまはますます近代である。森で起こっていることが、人間界の場合は、派手にバイナリー的になって顕れる。

むかしから学会などで「刺激を受けました」と言っている人がイヤだったが、認識に関わることが「刺激」な訳がないからである。大学や入試の議論でも、人間と人間との関係を「刺激を与えあう関係」みたいに考えている人がかなりおり、非人間的であると思うね。刺激というのは実際は支配に似ている。森の木を無理やり伐採して公園にするようなものである。

映画「リング」のよいところは、貞子の呪いを人間的なケアで終わらせなかったことだ。呪いは自生して止むことがない。人間だって人間が考えている以上に森のように人間界そのものとして自生している。