★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「GO!GO!NIAGARA」と「さよなら絶望先生」、そして高畠素之

2010-07-04 23:41:47 | 思想
大瀧詠一の「GO!GO!NIAGRA」を聴きながら「さよなら絶望先生4」を読んでいたら、後ろの本棚の上に斜めに積み上がっていた『資本論』が四冊ぐらい墜ちてきた。

改造社の高畠素之訳のものだから、まあいいか……少し壊れたが。

高畠は『資本論』をはじめて全部訳した人だが、無政府主義的な色が強かった当時の左翼の中で、「われら日本猿には国家が必要」(←そんなことは言ってないか)と、国家社会主義の方向に行った、ある意味で正直な方である。国家と資本が別のものであるという真実に目覚めた方々はいつも大変だ、国家が必要か不必要か、即答しなければならない気分になってくるからだ。

しかし、国家をめぐる良くも悪くも観念論に陥りがちな議論よりも、やっかいなのは私有財産の撤廃の議論の方である気もする。最近なんか、研究者の世界でも、共同研究とかいって、他人の財産まで強奪する仕組みがある。個人で閉じてないで、他人といっしょにやりましょうと、個人宅に押し入った強盗が言っているのだからあきれる。(もちろん冗談で言っているわけだが、少なからずこういう感じではある)大学の運営関係の仕事が個人の業績としてカウントされるのも同じような事態である。そうすれば個人主義的な研究者が公共意識にめざめると思ったか?ちょっとは想像力を働かせていただきたい。自分が目立てる局面だけを選択的に仕事し、目にみえない仕事を巧妙に他人に押しつけるようになるに決まっているではないか?――というわけで、なぜか公共的なスピリットに最も欠けているようなタイプが「みんなの迷惑にならないようにしましょうね」とか叫び、迷惑をかけないように気をつけている人々に自分の尻ぬぐいをさせつつ、私益のための行動を続ける羽目になる。一見、私有財産の撤廃的な施策に見えながら、もっとも私益に走るやつに資する次第である。無論、その私益というのが上の方の意向と一致するように自己鍛錬を積んできてしまった結果、逡巡なく主張されるので、――エゴに走ることが全体主義的な雰囲気を増幅させていく。

こうなったらもう終わりだ。

「こんな時、あの娘がいてくれたらナア」が終わったあと、「あの~、サイドⅠ終わったんですけども」という大瀧さんの声が聞こえてくるのはいつ聴いても楽しい。サイドⅡを押し売りしてる感じがしないのが不思議である。「さよなら絶望先生」は、第40話「人生は1段のひな壇にも若かない」が面白い。糸色家のひな祭りへ行くと、そこには地下段飾りという下に伸びるひな壇がある。下には下があるという「ポジティブな発想」からつくられたものだ。下層志向やプレカリアートを論じた作者の私益に満ちた書物よりこっちの方がよっぽど優れている。