★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「十人十色の読者の人生」否定論

2010-07-17 22:33:50 | 文学
昨日の授業で、作者の人生が作品に反映するとは限らないという話をしたときに、「浦沢直樹はへんな犯罪者が好きだとか、鳥山明は戦闘力が高いとか、とても信じられない」と言ったら、異常にウケたけど、それほど面白かったかな……特に鳥山明が面白かったらしいんだけど。

彼らの長所は、小説がフィクションであることだけはすごくよく分かっていることだ。

所謂「テクスト論」以降、作者をバカにして読者がひたすらわかりやすさを要求するようになったような気がしていたけど、違うかもしれない。テキストに書かれていることを無視して、読者自らの人生体験(笑)とかを勝手に作者にもあったことにする、昔作家論の一部にみられたような写実主義的感想文体質こそが原因だったのかもしれない。作者はそんなこといってないんじゃないですか、テキストにそんなことは書いてないですよ、端的に誤読ですよ、と指摘すると、自分の人生体験を否定されたような気になる読者がすごく多く存在していることにいまさらながら驚く。今のご時世、人格否定とかで訴えられかねない(笑)。読者の人生なんかどうでもよいのだ、十人十色の読み方もどうでもよい、問題はテキストに何が書いてあるかだ。原理的にやや難はあるが、心構えとしてはこれでゆくべきなのである。だいたい自分の人生をの自慢げに語るその話自体が、ひどい紋切り型のフィクションであることが多いわけだ。そんな陳腐なものをテキストの中に探されても困る。ちょっと気を許すと、いきなり「自分は苦労してきました」ことを自慢するやつが多くなったのは何故だろう。相手(自分でもいい)がどのような人生を送ってきたかも想像せずにそんな自慢を出来る神経が信じられない。必要なのは、テキストは能力がなければ読めるとは限らない、同様に、自分の人生すら読解力がないと実態は掴めない、という「常識」の復活である。

佃公彦が亡くなった。私は中日新聞の「ほのぼの君」をほぼ毎日読んで育ったけど、内容はほどんど覚えてない。同様に、私の人生も良く覚えてない、とすべきである。「ほのぼの君」のあとは「ちびまる子ちゃん」だったけど、「ほのぼの君」の方が面白い気がしたことは覚えている。しかし、これも私の主観だからよくわからない。興味があるのは、「ほのぼの君」のあとが西原理恵子の「毎日かあさん」だったらどう思ったかである。作品の力が読者の主観とは関係ないことが明らかになったかもしれない。