★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

この世の終わりのための教育実習

2010-08-07 18:57:57 | 音楽
マルティヌーを聴くと、私は、戦争が終わって不気味に静まりかえった世界を、思い浮かべる。シェーンベルクを聴いたときもそんな感じがする。たぶん中学生のころ、平和教育かなんかで広島の原爆の写真とかを見ていたときに、彼らの曲をラジオではじめて聴いた記憶がある。たぶん、そのせいである。

マルティヌーの交響曲第6番の冒頭は、明らかに、死体が折り重なった戦場の描写であるようだ。「リジツェへの追悼」とか「野外のミサ」といった戦争と直接関係がある曲よりもそう聞こえる。

シェーンベルクの室内交響曲第2番の最後は、原爆のキノコ雲が立ち昇った様子の描写に聞こえる。ホロコーストを歌った「ワルシャワの生き残り」よりも私には強烈である。

ちなみに、ウエルズの「タイム・マシン」を読むと、プロコフィエフの交響曲第6番が聞こえる。今考えると、この世の終わりの話と、戦争の終わりの曲が妙にマッチしているように感じられる。

私の中学生時代は、こうして終末観に彩られている、ようであった。

そういえば、教育実習のときは、学校も何もかもがいやでいやでたまらなかったが――というのも、学校も教員もサブイボが立つほど嫌いだったことに、実習でようやく気が付いたのである。実習校の帰りに食堂によると、少年ジャンプが置いてあったので、適当に開いて読みながら定食を食べたものだが──、それは、「ドラゴンボール」の最終話あたりであったと記憶する。私は作者の「もう終わりたいよ~」という声を聞いた。終わりたいのは教育実習であった。そんなとき、メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」でも聞いておればほんとに昇天できたかもしれないが、このときはそれどころではなかった。というわけで、いま「ドラゴンボール」を開くと、私は教育実習を想い出す。そして何かを終わらせたくなるのである。

結論1:ながら勉強やながら食事はよくない。
結論2:学生の皆さん教育実習がんばって下さいね~
結論3:学校と教員が嫌いでも、教育学部に就職することがある。