★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「わたくしのすきな顔」考

2010-08-17 23:27:03 | 大学
そろそろ教員採用試験の一次試験などの結果がでて、結果を教えてくれる学生諸君が現れる季節である。

当たり前であるが、結果によっては、この暑い中、とってもよい顔になって報告してくれるひともいる。おそらく真夏の昼の夢であろうが、いつもより×人に見えたりする。そのひとの気分で、人間は顔がよくなったり悪くなったりするのだろう。美人を職業とする人のつくられた写真や動画ばかり見ていると、我々はそういうことをつい忘れるのではなかろうか。

しかし、成功した人間が必ずしもよい顔をしているとは限らない。努力して結果がついてくることが常態化しプライドを保つだけのために人を馬鹿にすることも含めて戦略的に振る舞うようになると、その人が何か成功を収めても悪い顔であることが多い気がする。大学をふくめた学校の教員などには、こういう顔が多く、やりきれない。そんな「悪い顔」と「よい顔」の区別が出来なくなってしまっているのは、複製技術文化の発展のせいなのか、何なのか。――むろん、かく言うのは社交辞令である。

とはいえ、私は、どちらかといえば、後悔して落ち込んでいる人の顔の方が好きなような気もする。

要するに、素朴な顔はよいが、職分精神に溢れた純粋な顔はあんまりよくないということではなかろうか。もちろん、我々近代人はどちらの顔も持っている訳で、それを認めるだけだったらまあいいのだが、これを二者択一のように考え、どちらかの仮面をかぶろうとする人が殆どなのである。――いや、そうでもないかもしれない。金儲けを自然の欲求と捉えている人が結構いるからな……、そういう人は子どもっぽい素朴な仮面をかぶりつつ純粋なかんじを保っている。対して、一種のカルヴィニズムといっていいのか、大人っぽい禁欲的な職分精神というか奉仕精神の純粋な仮面をかぶりつつ素朴な顔をしているタイプもいる。いずれにせよ、昔ながらの資本主義的人間のありさまであるな……。

文学者の私としては、芥川ではないが、上のような日常的な仮面合戦ではなく、「刹那の感動」に賭けるしかないのだ。