★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

どうせわれわれはままならぬ

2010-08-10 23:50:18 | 大学
昨日、学生は様々な査定に疲れていてかわいそうとか書いてしまったのだが、おそらく夏ばてや原稿やらで弱っていたためであろう。というのは、私は教育学部の教員の中でも、学生の能力を査定しようとする執念に於いては、おそらく上から数えた方がはやい人間であるからだ。

なにしろ、他の授業では「秀」しかとったことのないような学生(うちの学部はそもそも評定が甘すぎるのだ……)を演習で「あ、こりゃ本質的にはあかん」と判断し、「可」をつけるようなのがわたくしである。私の尊敬するある教員などは、一発のテストで「不可」をつけたりするが、非常にやさしい。「また来年もがんばってね」と言ってるんだからな。私の場合はもっとひどい。「あなたの能力は現時点でこんな感じです。」と言っているのであるから。

国語研究室の学生も、もうかなりの数みてきたが、そのなかの教職志望の学生で「ああ、この学生は教員に向いてるなあ、ぜひがんばってほしいなあ」と思った学生は一人もいない。「頼むから教員になるのはやめてくれ」と思った学生が殆どである。現場に出ればなんとかなるよ現時点ではだめでも、という意見がよくあるが、あんまりそうは思わない。たぶん、そう言う人間がだいたい「なんとかな」っていないからである。そりゃ本当は何とかなっているのであろう。人間が地球を汚しても地球が文句を言わないのと同じように。当然わたくしの授業も査定もうまくはいっていない。

――私の理想はここには書けないくらい高いので、こんな感じになってしまうのであるが、かくいう私自身も、教員にも研究者にも向いてないと思うのだ。ただ、学生諸君と私が少し違うのは、私が神か何かから与えられた使命を帯びていると思いこんでいるいうことだけであろう。

使命を帯びていない学生諸君はどうすればよろしいのか?

根本的に、仕事というのは、てめえのためにやるものではなく、人のためにやるものである。自分のためにやっているつもりでも、結果的には人のためにしかなっていないような気がする。だから、ある職業に向いていようといまいと、もうあきらめて死ぬまで馬車馬のように人のために尽くす他はあるまい。

毎年学生を見ていて思うのだが、自分がよく評価されたいために、今やるべきことに優先順序をつけたがる学生は、きまって評価されない。安心して結構、学生が必死にがんばろうとも、私が心底学生を褒めることはありえない。私にそんな権利はないからである。がんばらなかった学生ももちろん褒めない。かっこをつけるのをやめること、これが一番難しく必要なことである。われわれは自分で思うほど器用に世の中渡っていけるほど能力が高くないのだから。どうせわれわれはままならぬ。

私の言っていることが矛盾しているように思うそこの方、あなた教員には向いていないであろう。教員に向いていない私が言っているのだから確かである。