★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

山之口貘とわたくし

2010-08-31 11:31:54 | 文学
私はどちらかといえば、資料に基づいて文章を書く人なので、資料が置いてある場所に常駐しているのが理想である。

研究室で研究をしたいと昔は生意気にも夢想していたのだが、資料が入りきらないので無理だと分かった。長くやっていると、いままで使った本屋やコピーなど、これから使うであろうものが大量になってきて、引っ越しのたびに、ノイローゼである。

資料を読んだり、メモをとってみたり、考えたり……これを半年以上つづけてやっと何か書けるかもしれない状態になってくる。しかも書き始めてみると、だいたいその「書けるかもしれない」というのが勘違いだったと分かる。そのときの絶望感たるや毎回ひどいものだが、そのとき、資料の山と自分を取り囲む本棚がじりじりと圧迫してくるようである。

論文を書き終わる直前は天翔る感じで非常に幸福である。しかし、それもだいたい勘違いなので、すぐに気分は墜落する。

こんな生活をしつつ、学会やらシンポジウムやらで大活躍、夜は酒を飲んで、という人はほんとすごいと思う。私にはそんな体力も才覚もないようだ……せいぜい本はちゃんと読むことにしたい。

山之口貘に「座布団」という詩がある。

土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽といふ
楽の上にはなんにもないのであらうか
どうぞおしきなさいとすゝめられて
楽に坐ったさびしさよ
土の世界をはるかにみおろしてゐるやうに
住み馴れぬ世界がさびしいよ


確かにこの土の世界から浮き上がったようなさびしさは尋常ではないのだが、そこは山之口貘で、これを歌うエネルギーに変えたのだ。私の場合にはこの浮き上がり方はない。常に切り立った壁に挟まれている気分である。(←たぶん、それ本棚