★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

三浦哲郎氏とわたくし

2010-08-29 23:09:19 | 文学
大学一年の時に、国語表現法という授業があって、小説執筆の課題があった。

わたしは、大学に入った途端、自称アヴァンギャルドな感じの小説を3編ぐらい書きとばして悦に入っていたこともあり、しかし「大学の授業だからあまりアヴァンギャルドはまずいし、先生が描写を大切にとかいっているから、近代文学的なかんじで、まあ大江健三郎と中上健次を混ぜた感じでいこう」ときめて、「(なんとか)の朝」(←ここまでかたっといて題名忘却)というのを提出した。内容は、親族どうしのいがみ合いと中学生の性をあつかった、私の実体験とは殆ど何も関係がない、今想い出しても自殺したくなるような恥ずかしいものであった……

狙い通り、その作品がすごく褒められてわたしは自分の処世術に慄然となったが、問題は、最後に先生が私に言われた言葉である。

「三浦哲郎に似ててすばらしかったです。」

私は三浦哲郎を読んだことがなかった。

若手の作家志望者たちがものを書くと自然に村上春樹みたいな文体になってしまう、という説を聞いたことがあるが、彼らが村上を読んでいるとは限らない。文体というのは、そういうふしぎなものである。

私は、自然に大江や中上にはなれないことを学んだ。私は、それからというもの、自分から自然に流れ出してくる文体が厭で、小林秀雄や鴎外の堅い評論を書写して文体改造を試みた。思春期特有の、自分の顔が厭でしょうがない、といった心情と似ているかもしれない。

何が書きたかったというと、今日、三浦哲郎氏が死去されたのである。

私は結局、三浦氏の愛読者ではなかったが、塾で教えていたときに、中学生がすごく面白いと言っていたのが、「しず女の生涯」である。私は、心底、三浦氏をうらやましいと思った。