★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

右手に寄生虫~

2010-08-19 20:27:53 | 漫画など
この前、岩明均の『寄生獣』を初めて読んだんだが、いい作品だなあ。増えすぎた人類をなんとかするため、ある生物が人間にとりつく。それでその人間は頭などが刃物に変形して人間を捕食する──そんな新種があちこちで誕生してしまうのだが、寄生に失敗し右手にとどまった「ミギー」と右手の持ち主には友情が芽生えて……といった話である。まあ、だいたいそんな感じである。

右手に缶コーラ~左手には白いさんだ~る
ジーンズをぬらして~泳ぐあなた、あきれてみてーる
ばぁかね~呼んでもむーだよ
水着持ってない~

        (松田聖子で「渚のバルコニー」)

とか調子こいていた80年代に鉄槌を喰らわすべく現れたのが「寄生獣」であろうと一見思われるけれども、聖子ちゃんの歌もなんとなく浮世離れしており、ある意味人類が死に絶えたあの世の歌ではなかったであろうか。聖子ちゃんが天国でいっさい人間とは関係なくなってる一方で、地上では「デビルマン」以来、血みどろだったわけであり、それがその実80年代の正体だったのである。「デビルマン」は、ダンテの「神曲」のように天国も地獄も両方視野に入れる余裕があったが、もう80年代の我々には、天国か地獄か、という二者択一しか残されてはいなかった。「寄生獣」は、したがって「デビルマン」の地上(地球)市民バージョンとして書かれることになる訳である。歌にしたらこんなかんじであろう。

右手に寄生虫~左手には古い包丁
返り血を浴びて~人を食うあなた、あきれてみてーる
ばぁかね~呼んでもむーだよ
理性持ってない~


90年代、ハルマゲドンに向かうべく、みんなで心の準備をしていたあの頃、やっぱり何もおきなかった。昨日のように、くだらない欲望に振り回される人間に同情してみることも必要なのだが、やっぱり、オウムも「エヴァンゲリオン」も「寄生獣」もレベルが低い、と彼らを「批判しきる野蛮な情熱」(宮本顕治「「敗北」の文学」)を持つことも必要である。宮本は哀れなインテリ芥川が相手だったから自分を「野蛮」であるとしていきがってみることも出来た訳だが、我々は野蛮なものに野蛮に立ち向かうのだから大変である。