★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

華氏☆おにいさん

2010-12-28 15:54:48 | 映画


そういえば、今年はクリスマスに合わせて「聖☆おにいさん6」が届いていた。昨日の夜読んだ。



今日は起きたあと故あって「華氏451」を観直す。

本を読むことも所持することもできない社会で、その焚書実行隊は消防士であった。ホースの代わりに火炎放射器を持つ。そして本を持っているぞと密告があった家にかけつけて、本を、場合によっては所持者も一緒に燃やしてしまう。人々の娯楽はテレビで、テレビが勝手に質問してきたりこちらで答えたり双方向的(笑)コミュニケーションがなされている。原作ではどうなっていたか忘れたが、消防署長の言に拠れば、本は、自分が特別であるという妙なプライドや現実にはありえない感情を人々に植え付けるが為に危険である。これが全体主義だとしたら、それは、画一化というよりは、かかる現実主義的平準化への欲望によって担われているということになる。つまりこの映画は、テレビ対本──即ち、機械文化対活字文化というより、知性対大衆化の戦いの話ではなかろうか?当時はハイテクノロジーと見えたかも知れない、壁掛けテレビや妙なかたちの電話がテクノロジーに見えなくなった今、よりテーマがはっきり見えてくるのではなかろうか。主人公のモンターグは、禁止されている本をすぐに読みはじめることができた。つまり文字を読める程度の教育は受けているわけだ。この社会で禁止されているのは、文字を読む能力ではなく、生活に必要なもの以上の知を本から強制されてしまうことなのである。前掲の署長の言葉など、文学批判として、ある種の学者が世間に媚びて言いそうなせりふではないか。しかも、その内容は間違いではない、が、――生活に必要なサマリーにすぎないのである。この社会、今の我々の社会そのままではないか。

電子書籍の社会がこれから来るのかも知れないが、上記のテレビに文字がでてくるようなものである。とすると、どういう結末が可能であろうか?

「聖☆おにいさん」は、ある程度聖書と仏典の知識がないと意味が分からないところがあり、その意味では「馬鹿は読まなくていいよ」と言っている。しかし、そこでの挿話の扱い方は情報操作的であり聖書を読んだときの居心地の悪さみたいなものは消えている。しかし、もともと日本の社会はそんな風にして過去の書物を保存してきているのかもしれない。「華氏451」の「本たち」──本を記憶して代々つたえようとする人達のような、迫害に耐えようとする姿勢は、「聖☆おにいさん」にはない。そりゃそうだ。プラトンが口承文化の権化である詩人たちを追放しようとしたように(最近よくこういうこと言う人いるから説を拝借!)、あちらはすぐ音声か文字か、映像か文字か、といいはじめる。我々はそうはいかんのだ。そしてあちらも、本当はそうはいかんのだ。