昨日、ある学者さんがやってきて、ひとつの原稿を見せてくれた。ある雑誌のインタビュー記事で、その先生が1時間半しゃべったものを、雑誌社の人間が文章にして「これでいいですか」と言ってきた、その原稿である。
その家政科の先生によると、肝心なところが全然伝わっておらず、どちらかというと反対の趣旨の文章になっているそうであった。先生のはなした主張がどのようなものでありどの程度真理であるかは措くとして、──たぶん、たくさん言われた中から自分の理解できるところをピックアップし、わかりやすい──つまり自分の知っている紋切り型でつなぎ合わせたのであろう。
私はその専門家ではないから単語レベルの妥当性はよく分からないところがあったが、その文章が「たちがわるい」ということは分かるし、レポートでこんなのが出てきたらせいぜいCである。
よい文章とは何かというのはとても難しい問題であるが、内容と文体は不即不離のものである。文体というものは純粋に存在しているわけではない。よく「文章が上手く書けない」という風に言って相談に来る人がいるが、だいたいその人の文章が悪いのは文体ではなく内容である。ということを匂わすと「私の意見だから」とか言って居直りにかかる。さっきからそういう「私の意見」がだめだと言ってるんであるが……。
その先生は「ほんと大学は象牙の塔なのかなぁ」と自虐的に嘆いていたのであるが、大学は象牙の塔に決まっている。大学の美点はそこにしかない。しかし、いうまでもなく、これは大学の現状を説明しているのではない。
さっき、asahi.com を見たら、こんど日本ハムに入るある大学野球のスターが「ハンカチ王子を演じることに抵抗はなかったか?」という非常に失礼な質問に答えている記事が載っていた。ハンカチ王子とかいう名前で商売をしていたのは、マスコミのほうではないか。自分でつけたあだ名を本人向かって「これを演じるのは大変じゃなかったか?」とは、きわめて心が悪い。怖ろしいのは、たぶん、質問している方が、自分の質問に対して、マスコミ自身に対する批判としてもその投手に対する思いやりとしても有効だと考えているかもしれないということである。確かにその質問者はハンカチ王子を命名した人ではなかったかもしれないし、大の大人を「ハンカチ王子」などといってしまう低脳さ加減に腹が立っていたのかもしれない。しかし、その質問者でさえ、ハンカチ王子にとっては、その低脳の一人に過ぎないのである。相手にとって自分がどのような人間であると認識されるか、というところまで忖度できないのはとても不思議である。これは質問者が相手の気持ちを忖度するコミュニケーション能力に欠けているからではない。単に知的レベルの問題である。