★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

我が帰省(正月編)1──特急信濃に乗り遅れたが寒さは大したことなかったな

2010-12-31 23:29:11 | 旅行や帰省

×松といっても無人駅ではないか、私の田舎といい勝負だ


マリンラ×ナー


はいはい岡山駅…

京都駅…「きんこんかんこん…おしらせいたします。これから名古屋までの間、雪のため速度を落として運転します。名古屋には4時30分到着予定です」(←なにーーーーっ

京都付近は吹雪。隣の席の女子が豚のシャッター音で遊んでいるので、私も携帯機能をついチェックしてしまう。指定席とっていた特急信濃には乗れなかった。これだから平野の電車は。この程度の雪でおくれるとは軟弱にも程がある。



極寒の中津川駅。次の電車まで一時間近くもある。塩尻とか中津川というのはこうだから困るのだ。旅において足止めが危険であるのは古典を読んでもあまりわからないが、実際に旅に出てみるとわかるのである。


2時間遅れで実家に到着。大したことないな積雪は。寒さも大したことないだろう、氷点下5度ぐらいだろうて……

絵筆をとったレディと「正義」を論じる男たち

2010-12-31 01:36:41 | 思想


今日眺めていたのは、上の二冊である。
どちらもある意味「正義」について書かれた本で、非常に真面目な態度で書かれている。

右のアレナス『絵筆をとったレディ』は、理不尽にも埋もれていた女性画家の絵を紹介しようとするものである。「女性は世捨て人のような環境に置かれても、偉大さを守りうる」──著者の姿勢はこの言葉に象徴的に現れている。先日ブログで触れたルブランもその中の一人であった。著者は、『マリー・アントワネットと子どもたち』を、滅び行くものを描いたものとして「あぶなっかしいほどに浅薄」と断ずるのに対して、『娘ジェリーを連れた自画像』に対しては、革命後のギリシャ・ローマ風のファッションを描き込んだものとして評価し「母性愛を描いてこれほど観る者の心を魅了する作品も珍しい」と絶賛する。私は、どちらの絵も絵空事的な雰囲気を漂わしているというところがどうしても引っかかり、このように思い切った評価を下すことができない。ジビラ・フォン・ボンドルフの『祈る聖フランチェスコ』について、著者はまず、「この絵を見たひとは、たいがい手の込んだ刺繍と勘違いするだろう。」と書き起こす。そうか?私が刺繍に詳しくないからなのか……、刺繍とみなすやつなんかいるのかね?この著者に欠けているのは、男性優位社会とか美術史の制度とかいった観念とは別の、具体的なものを想起する能力である。ある種のマルキストもそうだったが、彼らは唯物論者というより、観念が世界を支配するなら観念を取り替えればよいと考える、ほとんど神さま対デビルマン式の世界観を持っている。

左の大澤真幸×宮台真司の『「正義」について論じます』は、もちろんサンデルの本のパロディである。私なら『「正義」について諭します』とか『「正義」について論じる(笑)』とか『「正義」について論じることになってしまったでござる』とか、要するに羞恥心を抱えつつ題をつけることになるであろう、という冗談はともかく……。どうもこの二人から私が連想するのは、花★清輝と佐々■基一である。前者は、何を論じても世の中が危機に陥ることを望んでいる感じになってしまうのに対し、後者は何を論じても人間は人に優しくなれるぜ、みたいなニュアンスになってしまう。無論、前者は宮台で後者は大澤である。彼らが利己的であるか利他的であるか、私は判断に迷う。ここでも私や彼らの具体的なものを想起する能力が問題だ。ただ、彼らがそんなことは無論承知の助で言論活動をしているのは分かる。例えば、宮台は、利他的なやつだけがミメーシスされる、つまり「感染」を引き起こすというけれども、それは、その言説自体が感染源たらんとしているということである。宮台は、「具体的な読者」がそういう感染を望んでいるほど、利己的なひどい感染が充満しているのを知っているからだ。……とはいえ、私が気になっているのは、宮台がときどき言及するフーコーの美学概念の参照先であるところの──アドルノの初期ロマン派理解は、あれで、ほんとにええんか、という問題だ。私が15年も考えているのはそこらあたりの問題である。