★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

死の操演終了

2011-06-11 23:26:12 | 文学


芥川龍之介書画展のための特別講演終えました。2時間弱もしゃべってしまったよ。
内容的には欠点だらけで、自信がないところを中心にことごとくペースが乱れてしまい残念だった。とにかく、隅から隅まできちんと勉強し構成していく他はないのである。私は器用ではないから認識の不十分さが喋りのたどたどしさに直結する。というか、文学の場合は、「社会的常識」に頼った立論というのがほぼ不可能なのでひたすらきちんと解釈を説得的に展開する他はないのである。

今日は、熱心なご年配の方々や、ゼミ生の他、国語研究室の二年生、あと×大の同僚の先生(びっくりした)などもいらっしゃっており、幅広い方々にお話しすることになったので、どきどきしてしまい、実習生の気分を味わった。

文学は、芥川龍之介の周辺が恐らくそうだったように、文人趣味的なぎすぎすした空間のなかで煮詰まりながら展開していく側面がある。文化のグローバルな交通は不可避的な前提条件に過ぎず、それを当為と考えても文学は生じない。私は、故に、多人数の聴衆の他者性を起爆剤とする演説型はあまり好きではない。演説型はたいてい精神がモノローグ的だ。講演をやって思うのは、やはりそういう意味で文学は講演には不向きだなあと思う。人生訓を語る作家ならともかくね……。しかし、かかる意味で、漱石の「私の個人主義」は驚異的である。