かがわ長寿大学の講義終了しました。
しゃべっていて、二つの唱歌──「旅愁」と「ふるさと」の処理の間違いに気づき、そのあとの展開を強引にねじ伏せたたために最後がどたばたしてしまった。こんなミスをやっているようではいけない。「河霧」の扱いもしゃべっていて変更した。予習段階で論理の詰めが甘かった。
動揺した私に追い打ちを掛けたのが、「ふるさと」を流していた時の事件である。よい演奏だったせいか、涙ぐむ人、歌い出す人、確実に過去に魂が飛んでいった人、などが続出。私は、この曲の内容が「旅愁」の方向に脱構築されていった昭和初期の歴史を、それが拡大された形で反復されていた戦後の歴史をでっち上げようとしていたのだが、……まったく曲の威力を侮っていた。これは、朔太郎以降?の歌い上げる「詩」の意味をよく考えていなかったこととつながっているかもしれない。「ふるさと」を表象批判的に扱っても駄目だなあ……という当然のことを突きつけられた形である。
とりあえず、講義を終えて、私は駅に向かった……